退職前に刑事だったという経歴の特殊性、そしてこの特殊性によってもたらされた退職後の生活環境の特殊性は、シリーズ第1回目の物語「嘘と女」できわめて明確に示される。
いきなりの冒頭場面で、現役の刑事時代につき合いのあった「やくざの親分」大場義成が、直也の定年退職祝いに訪れる。
やくざとはいっても、この親分、墨田区――たぶん向島一帯――で香具師を束ねる昔気質の頭で、暴力団ではないらしい。とはいえ、職種が職種なので、一般市民やだいたいの警察官からは「色眼鏡」で見られ警戒されている。
ところが、直也は人情味のある刑事で、この親分と「対等に」「ごく普通に」つき合ってきたらしい。というのも、地区・近隣社会の行事とか寺社の縁日、催事などで、この親分がイヴェントを活性化するために出店を仕切ったり、子分を総動員したりと、腰を低くしてコミュニティに尽くしたらしいからだ。
しかし、直也の妻の早季子は、刑事を退職したのにこの手の人物が家にやって来るのが気に入らない様子。
そのうえ、退職後に夫が毎日、家に居座っているのも煙たい――気づまりな――感じのようだ。それというのも、長いあいだ直也が早季子との会話を怠ってきたため、コミュニケイション・ギャップがあるためだ。
それで、早季子は自分の楽しみ(趣味のフランダンス)のために、朝から家を出てしまった。
そこにやって来たのが、今西素子という奇妙な中年女性。
素子は精神的に不安定で、夫との関係が悪化したりすると、「放火をした」「万引きをした」と虚偽の犯罪の告白をしに警察にやって来る習慣があった。刑事たちは、こういう手合いを極力避けたのだが、人情家の猪瀬直也は親身になって話を聞いてやっていたらしい。
で、退職したのちも、「告白」をしに直也の自宅にやってきた。たぶん元同僚で今でも現役の多田野刑事に自宅を教えられて、ここに来たようだ。その日は「夫をバットで殴り殺した」といって、調書を取るように直也に迫った。
というわけで、退職した直後ということもあって、刑事時代の「しがらみ」がいまだに直也に身にしっかりと絡みついて回っているわけだ。
現役の刑事時代、猪瀬直樹は容疑者追及・逮捕の成績を追いかけるよりも、容疑者に同情して愚痴や境涯を聞いてやったり、軽犯罪を見逃し、更生・立ち直りを援助してやったりすることに関心を向けていたらしい。だから、犯罪捜査=刑事の成績はぱっとしなかったが、彼の世話になった余刑者(懲役刑ののち監獄から出た人びと)や市民たちに慕われていた。
同僚の多田野も、そういう猪瀬を高く買っていた。
そういう性格・行動スタイルの直也だったから、出世できなくて退職直前まで警部補で、やめる1週間前に温情で警部に昇進させてもらったという。そして、自分の出世や目先の業績にしか目配りできない署長(墨田署の)には侮蔑され、いや敬遠されていたらしい。
上に覚え目出たくないから、退職後も「天下り」の再就職の口は回してもらえなかった。そのために今、職探しをしながら、自宅にくすぶっているわけなのだ。
直也が素子に迫られているところに、早季子はフラダンスの仲間と戻って来た。いまだに刑事時代の腐れ縁というか面倒な「しがらみ」にまといつかれている直也にあきれ果てる。
だが、やがて彼女は夫の面倒見の良さや人情家の側面に気がついて、直也の素子対策に協力し始めた。
仲睦ましい男女を見ると無性に腹を立てる素子の性格を引っ張り出そうと、直也と早季子は仲良し夫婦の振りを始めた。というのも、夫に対する素子の疑いを晴らすためだった。そして、自宅に戻って夫との関係を修復する努力を決意させた。
というわけで、めでたく素子を家に帰す算段は成功した。