歴史や社会現象を絵で、しかも1つの流れの物語として描き出すのは、およそ至難の業である。
通常のアカデミズムの手法による記述の方がはるかに楽である。というのは、文章は抽象化された世界を言葉で描くだけですむから。
ところが、絵物語としてのマンガは、風景や状況を絵で描き出さなければならない。
たとえば、ある人物がある場所にいることを画像や図像で表現するためには、その人物の風貌に加えて服装や仲間、従者、さらにいる場所の光景(都市や農村の風景)を再現しなければならない。
だから、たとえばその当時の、建物の外観や内部構造、周囲の風景を描くために、手間のかかる丹念な時代考証や調査が必要になる。
とりわけ、建物内部を描くためには、その時代の室内装飾や家具や備品も忠実に再現しなければならない。
しかも、この作品は15世紀末のイタリアを描いている。
世界貿易で繁栄した地域である、チェーザレをはじめとする登場人物が属する支配階級が生活する居住空間の室内には、世界中から集められた工芸品や美術品があるだろう。名だたるルネサンス時代の芸術家や職匠たちが創作した絵画や彫刻、壁画はいたるところにあるだろう。
学術論文では、権力闘争を描くのに、そんな背景や場面を描く必要はない。
ところが、絵物語=劇画は、それなりの単純化や省略をおこなうとしても、「もっともらしく見せるための仕掛け」としての背景や情景を描き込む必要がある。
学者や研究者には求められもしない、その時代の人物たちの生活や息づかいを表現する背景や場面を絵に描く能力と知識が必要になるのだ。つまりは、いまやマンガ家の方が、学者よりもはるかに高度で洗練された能力や技法を求められているのだ。
映画はさらに難しい。
描く時代が現代でも、たとえば1970年代なら、その時代の街並みや服装、ヘアスタイル、自動車や列車などなどを再現しなければならないから。それゆえ、映画のスタッフには、学者よりもはるかに時代考証(服装や乗り物、家具調度品など)に詳しい専門家が考証や場面(セット)づくり、道具づくりに参加する。
わたしが映画の背景や時代状況にこだわるのは、そういう事情があるからだ。一流といわれる学者の論文よりも、映画からイメイジづくりで学ぶことがはるかに多いのだ。だから、ただ見流すことはできない。
いずれにせよ、絵や画像、映像は、その時代に生きた具体的な人びとの姿を「それらしく」描かなければ説得力がないのだ。
その点、この作品は、当時の建物の景観や内部構造、周囲の風景を、かなり正確に描き出しているように思える。
それにもまして難しいのは、その時代に生きた人びとの意識や観念、行動スタイルや心性を描くことである。
この作品は、これについてはあまり成功していない。
いや、学術論文のほとんども同じなのだが。
現代人の世界観や心性、常識で、過去の時代を描いてしまうのだ。
現代の国家単位・国民単位の歴史観や共同主観に依拠して、過去の歴史を描いてしまうのだ。現在の価値基準を尺度として、それが存在しなかった時代に持ち込み、判断してしまうのだ。
フランスやドイツ、イタリアという国民国家が成立してからつくられた「フランス史」「ドイツ史」「イタリア史」の観念や方法論が、そういうナショナルなまとまりを形成していなかった時代に何の疑いもなく持ち込まれるのだ。