チェーザレとマキァヴェリ 目次
《イル・プリンチペ》
近代の黎明 イタリア
政治の醜悪な構造
チェーザレ・ボルジア
マンガによる表現の難しさ
「その時代」を描く難しさ
国民・国家がない時代
エスパーニャの状況
フランスの状況
物語の時代と場所
時代設定と人物配置
ローマと教皇庁
ボルジア家の功績
イタリアの地政学
ヨーロッパ世界経済の形成
そして、ピーサ市
有力諸王権の角逐
混沌渦の中心
ニッコロ・マキァヴェッリ
イタリア戦争
教皇アレクサンデル
イタリア戦争
軍隊の実情
傭兵たちの戦争
戦争の実相
余談 戦史の実相
川中島の戦いの実態
戦闘よりも交渉が物を言う
日本は契約社会

余談 戦史の実相

  日本でも同じ。たとえば、私が住む信州川中島地方。戦国時代、上杉謙信軍と武田信玄軍とが「激しい角逐」を繰り返したという、法螺話がまかり通っている。
  そういう物語は、江戸時代になってから「軍学」という講談調の歴史談義――たとえば『甲陽軍鑑』――をもとにつくられた。
  だが、歴史は、NHKの「大河時代劇」のためにあるのではない。

川中島の戦いの実態

  当時、川中島は、その名のとおり、信濃川の2大支流(本流)の千曲川と犀川に挟まれた中州で、たびたびの大河の氾濫で巨大な湿地帯、湿原をなしていた。大半が葦原で、泥濘が深かった。水はけのよい台地には古くから武装した農民集団が農業開発・開拓を進めていた。
  山麓や台地には豊かな農村が営まれていた。武田も上杉も、それゆえできるだけ多くの農村を味方につけたがった。
  だが、上杉も武田も彼らを味方につけるために農村や耕地を荒らすことを避けるしかなく、兵士は許可なく農民の集落や耕地には立ち入ることができなかった。
  いきおい、戦いの場は湿地・泥濘の葦原になった。ゆえに、重武装の騎士を乗せて馬が動けるような地理的条件はなかった。大軍の騎馬戦はまったくできなかった。

  双方とも、山岳の裾野や山頂、低い尾根に陣営や出城を構えて、川中島には小人数の歩兵隊を送り出した。あるいは湿地で安全な通り道を見つけるのがうまい馬を少数の哨戒部隊が利用したかもしれないが、大軍勢の移動や戦闘はできない地形だ。
  なにしろ、冬でも枯れ葦の茎の高さが2メートルを超える湿地帯だ。
  小部隊は、葦原を縫って敵方の兵員や陣地を偵察し、あるいは襲撃して、きわめて小規模な散兵戦を繰り広げた。とどのつまりは、「哨戦」――小さな哨戒部隊のあいだの偶発的な遭遇戦――の連鎖集合にすぎなかった。
  これが川中島の決戦の実相だ。
  そんなところに、双方の司令官格の武将が出張るはずもない。まして、謙信と信玄の一騎打ちなんていうのは、ホラ話にもならない。

  まして、信濃の武士たちは半農経営者(所領の宰領=地頭)である。農繁期には戦闘には出向かないし、そんなことを指示したら、武士たちにそっくり寝返られてしまう。
  しかも、武装して乗馬の武士(騎馬)一騎について、乗り換え用の馬数頭、その飼料と世話・調教要員数名、補助の武士と足軽が10人近く。要するに、騎士1人には十数名の兵員とその予備の武具や食料で20名近い要員と物資の備蓄・運搬管理が必要だった。
  だから、1万の兵員のうち、ロジスティクスに8割の人数がとられる。つまり、1割強が武士と直属の戦闘要員、そしてすべて自己管理の雑兵。

  だから、川中島に双方から1万ずつの兵員が出ても、戦闘要員は合計3000がせいぜい。そのほとんだが、周囲の山裾の砦や野営地に配置され、合戦場と言われる葦原に哨戒要員として派遣されるのは200から300。ローテイションによる交代制の番という形で。
  それがおよそ10平方キロメートルの河川敷に散開する。
  とても、スペクタクル映像化できるような戦闘シーンは起こるはずがない。
  戦争についての「劇的な」話は、だいたいが、こういう与太話だ。

戦闘よりも交渉が物を言う

  それゆえ、善光寺平での「上杉×武田」の勢力争いで最も重要だったのは、直接的な武力闘争ではなく、在地の支配階級や有力者層との外交(同盟)交渉、つまりは調略だった。
  周域の所領の地頭(統治や徴税の管理者)である武士や農村の惣領たちとの平和同盟や臣従協定をめぐる交渉と駆け引きだった。
  武田側でこの調略=交渉に携わった有能な外交官の1人が、山本勘助だった。彼は軍師参謀ではなく、外交官・密使だった。信濃での勢力圏・統治圏域の保持拡大のためには、軍事部門の参謀よりもはるかに役に立つブレインだった。
  上杉も武田も、ともに、
  …自分たちに臣従を誓えば、こんなに有利な取り計らい、扱いを約束しよう、どうか敵側には同盟しないでくれ、せめて中立をお願いする…
というようなしだいで、在地武士や農民の代表に辞を低くして交渉に臨んだ。富裕な農民は、商人も兼ねていて列島規模での貿易=遠距離商業を営んでもいたという。遠征した武士団は、富裕な農民の力を恐れてもいた。

  こうした在地の諸身分・諸階級こそ、当時使われた言葉としての「百姓」という民衆集団をなしていた。農民だけが百姓ではない。
  「百姓=農民」という方程式が捏造されるのは、明治以降だ。「士農工商という身分差別を廃止した」という明治政権のイデオロギー政策によって、言葉の真の歴史的意味が捻じ曲げられてしまったのだ。

日本は契約社会

  さて、街や農村集落は、戦国大名武将にとっては、やがて所領や支配地に取り込んで、その富や生産力を政治的に支配したい対象だから、それこそ大事にする。
  とても、戦場にできないし、まして掠奪するわけにはいかない。
  というわけで、日本の戦国武将は各地方の在地支配者・有力者とかなり綿密な臣従・同盟・平和・統治の交渉をおこない協定を取り結んだ。
  その意味では、日本は当時(16世紀)、ヨーロッパよりもはるかに進んだ、世界で最も先進的な「契約社会」であって、経済計算=商業計算による統治行政が組織された地域だった。
  低位後発の社会ではなかった。おそらく、独特な近代資本主義へのもっとも先進的な道を歩む社会だったといってもよい。
  とはいえ、ヨーロッパのように世界市場を軍事的に制覇しようとする運動傾向は持っていなかった。
  足元の歴史を学ぶと、世界観が逆転する。

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