マキァヴェッリが活躍した15世紀末のイタリアは、都市国家群の繁栄の頂点にあり、それゆえまた没落への入り口にさしかかっていた。
エスパーニャ王権やフランス王権などヨーロッパの強大な王権による権力闘争のなかに引き込まれ、力の衝突の舞台=標的になっていたのである。
すでに12世紀から北イタリアの諸都市は――大富豪商人門閥が統治を牛耳る――商業資本のヘゲモニーのもとで地中海世界経済での優位をめぐる権力争いを繰り広げていた。そして、自らの周囲の諸都市や農村を排他的な支配圏域(コンタード)に囲い込み、主権を備えた独立の軍事的=政治的単位として振舞っていた。
その頃、北イタリアは、商業と製造業、農業、芸術・学術などでヨーロッパで最も先進的で繁栄した極点をなしていた。
現生の実利と快楽の享受を求め肯定する富裕商人が優位を占める社会では、それゆえまた、中世的なローマ教会神学やスコラ哲学と訣別した、「世の中というもの(=世界)」についてのリアルな認識を打ち立てようとしていた。
もっとも、他方では、中世の伝統的な宗教観念や思想、慣行に深く束縛されてもいたのだが。
したがって、その意味では、マキァヴェッリによる近代政治学の基礎固めは「歴史的に必然的」であったとも見られる。
とはいえ、当時のイタリアの状況のなかに、マキァヴェッリ個人のパースナリティや数奇な体験をしたという偶然的な要因が存在したからでもあるだろう。
マキァヴェッリの『君主というもの』(以下『君主』と表記)は、支配者や権力者を支配する冷徹な法則というか、彼らを存在拘束する社会の権力構造、それゆえまた彼らの没落の必然性・可能性を描き出している。
つまり、そこには権力者や支配秩序への透徹した、根底的な批判精神が貫いている。そして、権力者や支配レジームを正統化する思想や観念(イデオロギー)を批判し、その虚飾を剥ぎ取る方法が示されている。
そこで、マキァヴェッリは、ラディカル政治学や西欧マルクス派(非または反ソヴィエト派)では1940年代以降、きわめて高い評価を受けてきた。
というのも、1920〜30年代、イタリア共産党書記長だったアントーニオ・グラムシは彼の「政治的ヘゲモニー理論」のスキームを基礎づけるさいに、マキァヴェッリの『君主』に大いに依拠したからでもあった。
しかし、一般にマキァヴェッリの洞察は、統治や政治闘争の本質をあまりにあからさまに暴き出したため、むしろ徳目だの正義だの、公正だの、価値だのといった御託を並べる近代政治学諸派からは敬遠されてきた。
ソヴィエト型マルクシズムからも敬遠され、無視されてきた。
権力闘争の非情さ、醜悪さを赤裸々に暴き、君主の政治的・軍事的支配の本質を抉り出し、透徹したイデオロギー批判を展開したという意味で、リアリズム=マテリアリズムの要素が強すぎるためだ。
マキァヴェッリは『君主』を統治者のためにものしたとはいっているが、《支配される側》から権力装置を正確に認識し、批判あるいは政治的攻撃の対象にする方法論をも提示したともいえる。
もしマルクスやエンゲルスたちがこの著書を読んでいたなら、《資本》や《コミュニスト党宣言》(この宣言はManifesto)は、おそらくかなり違った理論構成・内容で叙述されることになったはずだ。
マキァヴェッリは、政治理論としては、マルクスたちよりもはるか先に進んでいたのだ。もちろん、社会システムの経済的再生産と関連づけて政治現象を把握するところまでは、到達していなかったが。