フランスも似たようなもので、15世紀半ばにようやく「百年戦争」が収まり、ヴァロワ家の王権が立て直され、諸地方への王の権威が浸透し始めたところだった。
「百年戦争」という命名自体が、のちに国民国家ができてから「英仏対抗」が意識されてからつくられた歴史観にもとづいている。
百年戦争というこの一連の事件中心は、フランスの有力君侯どうしの王位と勢力圏をめぐる争いで、たまたまその一方が、辺境の属領としてのイングランドの王位を保持していたにすぎない。「英仏百年戦争」ではけっしてない。
しかも、15世紀末には、ヴァロワ家の正統=本家は断絶し、分家のオルレアン公家が宮廷を宰領するようになった。
当時のフランス王国の名目的版図は、せいぜい今日のフランス共和国の半分にも満たない広さで、しかも地方ごとに分裂していた。
ギュイエンヌには王の権威は届かず、ローヌ河の東岸は王権から自立していた。リヨンは地中海貿易圏(イタリアやエスパーニャ)との結びつきが強く、パリの王権や商業資本とは鋭く反目していた。
プロヴァンスやラングドックも王国の埒外にあったし、ブルゴーニュもまたそのほとんどがヴァロワ家フランス王権ではなく、それとは敵対する支配者に服属していた。
もっとも、そんな地方にも小さな飛び地のような直轄王領があって、王はその地を王権の支配下に組み込むための拠点として、あるいは楯突く地方勢力を分断するための楔として利用することもあったのだが。
いずれにせよ、ひとまとまりに統合された国土なんていうものは、はるかにのちの時代の産物だ。
そのうえ、名目上フランス王の統治に属している地方でさえ、数百にもおよぶ自立的な関税圏に分裂し、交通や物流を政治的・軍事的に分断していた。
たしかにマキァヴェッリは『君主』やそのほかの史論のなかで、「エスパーニャ人」とか「フランス人」「イタリア」というような言葉を用いているが、その意味する内容が何であるのか、あるいはどういう文脈で用いたのかを分析しなければならない。