たとえば、この時代には「スペイン(エスパーニャ)」とか「フランス」という単位での国家・国民(そういう単位での政治組織や人間集団のまとまり)は、まだまだ萌芽といえども、成立していなかった。
スペイン(エスパーニャ)やフランスという国はなかったのだ。
もちろん、エスパーニャ連合王国やフランス王権は存在した。しかし、現代の国民国家とは、およそ別次元のものだった。⇒エスパーニャ連合王国の歴史 / ⇒フランス王国の歴史
エスパーニャやフランスは、いずれも多数の政治的・軍事的にも(かつ法制度でも関税システムとしても)独立した多数の地方の集合体でしかなかった。「国境」とか「国家領土」というような観念は、ヨーロッパのどこにも生まれていなかった。
Staat ,etat ,stato などという言葉はあったが、およそ近代の「国家」とは別の事象を意味する用語だった。もちろん、君主の政治組織とか家政組織というような意味合いはあったのだが。
ゆえに、ピーサの大学で「フランス団」とか「スペイン団」というような学生団体も成立しようがなかった。
あったとすれば、「フランス王党派団」、エスパーニャはもっと複雑で「カスティーリャ団」「アラゴン団」「カタルーニャ(バルセローナ)団」「バレンシーア団」とかいうものだっただろう。
しかし、このあたりの事情に関する認識は専門研究者や学者においてもきわめていい加減なもので、現代人の「ナショナルな歴史観」に束縛されている自分の視点については、相当に無自覚なのだ。
そもそもフランスやイタリアなどという括り=枠組みで歴史や政治を語ることができないのだ。だが、ほかに認識の枠組みを設定しようがないので、便宜的に使用しているのだが。
エスパーニャ王国は、それぞれ固有の法と主権を持つ地方、王国や公国・侯国などの寄せ集めだった。
15世紀の末にレオン・カスティーリャ連合王国の王女とアラゴン・カタルーニャ連合王国の王子との婚姻が成り、やがて双方が王位を継承して共同の統治を始めたことで、でき上がったのだ。
レオンやカスティーリャはそれぞれ独自の法と王権を持ち、アラゴンもカスティーリャ(バルセローナ侯国)も独自の法と王室を持っていた。これらに、バレンシーア公領とアンダールシーア公領、グラナーダ領などが集合して形成された「継ぎはぎの王国」がエスパーニャだった。
エスパーニャでは、イベリア全体に権威をおよぼそうとするカスティーリャ王権と、法的・軍事的な自立性(立法、軍政、課税徴税権などの独立)の維持をめざすアラゴン、カタルーニャ、バスコ=ナバーラなどとが、事案ごと、政策ごとにことごとく対立反目していた。
それぞれのの内部の諸地方でさえ分立しがちだった。ナバーラ王国にいたっては、王がフランス王権に臣従していた。
そもそもカスティーリャ王権にしてからが、中世風の帝国観念にしがみついてはいたが、ほかの王国の固有の法や王権の自立性を奪いとって統合しようという意識はなかった。そういう思想が生まれる条件がなかったからだ。
地方の分立はカスティーリャ王国の内部でも深刻で、有力大貴族は王権に楯突いていた。
彼らは栄光メスタ評議会に結集して、各貴族の領地への王権の浸透を拒否妨害していた。メスタは、貴族連合からなる牧羊業者の組合で、王室の運営や王室財政の大半を左右できた。
エスパーニャ王権は、教科書では「ヨーロッパ絶対王政」の首座に祭り上げられているが、じつは有力貴族の連合という支持基盤の上で、彼らの利害に抵触しない範囲で動く王室にすぎなかった。王の専制統治というものは、どこにもなかった。
そこで、カスティーリャ王室が持ち出したのが、「帝国」観念だった。
帝国というのは、中世から15世紀頃までは、自立的な王国、侯国、都市などの上に立つ最有力の王権の統治レジーム(普遍的な観念)を意味していた。一片たりとも「強固に統合された国家」を表象するものではなかった。
つまりは、地方的な政治的・軍事的単位の自立性を認めながら、形式的な「臣従制度」、つまりはそれらの自立的政治体の支配者が最有力の王権にパースナルに臣従し、その限りで帝国レジームに服属する、統治を補佐・支援するという誓約によって、緩やかな連合体を形成する仕組み(共同主観)だった。
そのような緩やかな連合の盟主であることに大きな名誉を感じていたのだろう。
帝国あるいは大王国の支配者は、臣従を誓約した諸地方の王や君侯(公や伯などの上級領主)、都市団体、聖職者などに対して、それぞれの「古くからの固有の法(権利)」を認めて、保護や恩顧を約束した。
だが、その関係はパースナルなもので、帝王や大王が代替わりしたり、あるいは地方君侯たちが代替わりするたびに、臣従誓約を取り結び直さなければならなかった。領土としての結合は、そもそも考えにもおよばなかった。
要するに、近代の国家とはまったく別の次元の存在だった。