さて、この一連の戦乱を「イタリア戦争」と呼ぶ。だが、当時の戦争は現代とは全く異なっていた。
どの勢力の軍も戦役に投入できる規模は、せいぜい数百。
フランス王にしたところで、王権直属の傭兵団からなる常設軍(兵員1万以上)を組織したものの、域外での戦役に投入できる王の常設軍はないに等しかった。
王が自由にできる直属の軍はせいぜい兵員1000が上限だった。しかも、その大半は、パリの王宮やイールド・フランス、そのほかの直轄領に分散していた。そして、王領地の周囲の有力諸侯や領主は必ずしも王権に忠実ではなかった。
王が域外に遠征しその結果旗色が悪いとなると、反乱を起こして王座を奪おうという有力諸侯が――宮廷にも王国全体にも――ひしめいていた。王の留守中の軍事的防衛はきわめて重要だった。
それゆえ、王はパリや直轄領の軍を別のところに移動させることはできなかった。では、どうしたか。
王は自らとその親衛隊のほかには、直属の家臣(直封領主)たちを軍部隊の指揮官にして、プロヴァンスかドーフィネあたりの王の直轄領地にひとまず移動させ、イタリアへの行軍のためにはスイスや南ドイツ、そしてイタリア各地やアドリア海周辺の傭兵の特産地から、金で契約して兵員を徴募した。
傭兵制度の利用である。
いってみれば、戦力のほとんどが貨幣報酬を目的とする――損得勘定で戦に参加する――傭兵からなる軍で、兵員たちは傭兵として長く食いつないでいくためには、本気で熾烈な戦闘に突入する気はさらさらなかった。
とはいえ、あまりにダレだれているように見えて何の戦功もなければ、将来にわたって上得意の雇い主を失いかねなかった。
だから、戦闘の見せ方(演出)はすこぶる巧みだった。戦場は商売の舞台だった。
傭兵隊長たちは、敵方の軍のこれまた傭兵隊長たちと上手に示し合わせては、形の上では見ごたえのある攻防を繰り返して、雇用期間を長引かせ、収入の増加を画策した。戦場は劇場だったのだ。
イタリアは戦争でさえ、昔から「劇場舞台」に設えてきたのだ。歴史と文化、そして商業の厚みはおそろしい。
とはいえ、スイスの槍兵(出稼ぎ部隊)たちは勇猛果敢で、すさまじい攻撃や防御戦を展開した。
フランス王は彼らなしには、いかなる場所でも戦争を遂行できないことを十分わきまえていた。だから、高収入で雇い、自らの親衛隊や直属軍に編入していた。そして、戦略的に重要な拠点の攻略には、ためらうことなくスイス兵を投入した。
相手方も、スイス槍兵隊の勇猛果敢さは承知しているから、無謀な応戦はしないで、兵糧や補給が持続できそうなら都市城砦に立てこもり持久戦に持ち込んだ。
そして、兵站補給が危機に陥れば、犠牲を少なくするために、講和に持ち込んだ。要するに、イタリア戦争で最も重要な決断の尺度は、損得勘定、そろばんだった。
なかでも、戦場に投入された傭兵隊の損得勘定はすこぶる乱暴で、武器を敵の軍に向けるよりも、豊かなイタリア諸都市の無防備な住民に向けることが多かった。つまりは、掠奪や強奪で財貨を手に入れるか、あるいは破壊や掠奪の威嚇によって金品を脅し取るかだった。
この掠奪で、傭兵隊はしこたま利益を上げたのだった。
そのとおり、イタリア戦争は局地的に分散した小規模な戦闘の連鎖でしかなかったが、掠奪や破壊はすさまじかった。そこで、状況から教訓を得た都市は、破壊や掠奪から免れる方途を講ずるようになった。
都市門閥や政庁は、攻め寄せてくる傭兵隊の兵力が優勢ならば、はやばやと密使を送って示談金、すなわち、都市の掠奪や破壊をしないように(あるいは軽微にとどめるように)まとまった金額を提示した。
これが、当時の戦争のかなりの程度の実相だった。
歴史の教科書の平板で役人的な表記に惑わされてはならない。あるいは、講談調の歴史物語には、脚色がある。つまり「嘘」がある。芝居効果を演出するためだ。