チェーザレが活躍するさいの権力基盤となった教会組織、教皇と教皇庁についてもう少し詳しく触れておこう。
1378年、危機に陥った教皇と教皇長は、フランス王ヴァロワ王権の保護=威圧を受けてアヴィニョンに移った。それから1417年まで、そこを動くことができなかった。
とはいえ、アヴニョンには広壮な教皇庁宮殿や教会・大聖堂などが造営されていた。ローマはまだまだ田舎町で、そこに教皇座が置かれ、教皇が君臨するにはあまりに貧相だった。
新たな教皇庁には、ヨーロッパ中の教会組織から教会税や教会官職売買の代金が、イタリア金融商人たちの手を経て集められた。各地の教会・修道院の多くの枢要な役職は、賦課金や買収代金と引き換えに与えられていた。
各地の教会指導者は、その地の権力や富になびきながら選ばれていたのだ。
イタリア商人たちの手による教会税や教会資金の集積と移動だけでも、ようやく形成され始めたヨーロッパのネットワークに占める重みは相当なもので、それがイタリア商人による金融権力の原因でもあれば、結果でもあった。
その意味では、教皇と教皇長は当時のヨーロッパではほかに考えられないほどの財政利権を保有していたわけで、まともな行政組織や徴税装置をもたない当時のヨーロッパの諸王権が教皇庁との結びつきを獲得しようと血眼になっていたのは、まさに「むべなるかな」なのだ。
さて、ヴァロア王権は、イタリアを逃れた主要な枢機卿や教皇庁高官を抱き込んで、次期教皇候補の有力者を囲い込み、あれよあれよという間にコンクラーヴェを組織して、新教皇を選出してしまった。
まさに「電光石火」「寝耳に水」のできごとだった。
しかし、廃墟寸前にまで荒廃しかけたローマではあったが、どうにか形骸ばかりは持ちこたえていたから、そちらの有力者たちから見れば、アヴィニョンの新教皇(クレメンス7世)の正統性は大いに疑問だった。
教皇に絡む利権をすっかりアヴィニョンに持っていかれてはたまらないと、クレメンス教皇を非難し、自分たちの独自の新教皇を選出し、恐ろしく貧弱だが、その統治組織を打ち立てた。
利権の奪い合いに参加するものは続出して、北イタリアにも新教皇が登壇することさえあった。
これが、ローマ教会の大分裂(Schisma)だ。
15世紀になってから、教皇と教皇庁はローマに戻り教会組織は名目上融合したが、紛争や分裂の火種はあちらこちらに燻っていた。
その当時のローマといえば、イタリアの辺境の鄙びた――古代ローマの遺跡が残る――きわめて貧しい田舎町にすぎなかった。ローマ帝国の栄光は、はるか彼方に過ぎ去っていた。
それでも、ごくたまに、これまた名ばかりの神聖ローマ皇帝の位に就いたドイツ地方やオーストリアの君侯が、見かけ倒しで戦闘能力がまるでない、派手やかな軍隊を率いてローマでの戴冠式典(教皇の祝福を受けに)にやってきた。
その「軍事パレイド」や戴冠式典、は貧しい田舎町では、驚天動地の見世物だった。
その狂乱と宴が終われば、ローマは薄汚くてうらぶれた田舎町に戻ったという。
イタリアの商工業の中心地、繁栄する諸地方は、ローマからはるか北方にあった。
ロマーニャやトスカーナよりも南には、たしかに豊かな農業はあったものの、政治的・軍事的にはナーポリ王権の統合秩序はまったくないも同然で、それこそ混沌と分裂が横行していた。
ローマは、そんな経済的に発達した北部と縁辺化された南部との中間に位置していた辺境だった。
そんな廃墟に等しいローマを名だたる都市に仕立て上げていきながら、ローマ教皇庁の権威を再建するのはきわめて難しい仕事だった。
チェーザレ・ボルジアの父君、アレクサンデル6世こそ、自らの家系の巨額の資産と強引な利権誘導によって、教皇庁の見栄えと権力を一気に高めて、イタリア中央部にユニークな領域国家としてのローマ教皇領を樹立した大立者だった。
そして、その経略を政治的・軍事的側面から主柱として支えたのが、チェーザレだった。
だが、そのときのイタリアは相変わらず分裂したうえに、それまでの北イタリア都市国家群とは桁違いの軍事力を持つ強大な2つの王権、エスパーニャ王権とフランス王権が激しく角逐するという、きわめて困難な状況にあった。
1507年、チェーザレは志半ばで夭逝する。マキァヴェッリはチェーザレの死を惜しんだ。