原作者、宮崎駿は、たしかにいたるところに自分の考え方、感じ方を浸透させていますが、それを説教しようとか、説得しようというつもりで、この物語を描いたわけではない、と私は感じます。
「面白くなければダメだ!」という、彼のいつもの発想が、この壮大な物語、実に波乱に富み、わくわくする叙事詩を描かせたと思います。
宮崎は、教養が深く、幅広い知識を蓄え、経験を積んだ「おとな」ですが、子どものように次々に面白いことを求め、好奇心の旅を続けた結果が、この作品なのだと思います。
とくに物語の結末では、ナウシカたちは、旧人類のふりかざす正義や理想を振り払い、打ち砕き、自分たちが選択する自由を選び取ります。
旧人類は、ナウシカたち人類も含めて、その世界のあらゆる生物・生命を人工的につくり出したので、自分たちにとっては「造物主=神」にも等しい存在です。
旧人類は滅びてもなお、シュワの墓所に彼らの文明を押し付けようとするシステムとプログラムを残しました。神として振る舞おうというのでしょうか。
私は無神論者なので、人間の思考や精神が「神なるもの」を生み出すのだと考えます。神を生み出した者たちは、「神なるもの」を人類一般よりもはるかに高い位置に置いて、人類全般を裁こうとしていると考えます。
ナウシカたちは、それを拒絶するのです。たいへん痛快です。
言い換えれば、滅びの危険と隣り合わせでも、自分たちで失敗する自由、失敗しながら生きる術を獲得していく、そういう決断をすることになっています。
「神なるもの」を信じ万物の尺度としようとする人びとにとっては、それは傲岸不遜きわまりない振る舞いに見えるでしょう。
けれども、「神」とはそれを崇め都合よく利用しようとする者たちにとっての神にすぎません。それを他者の上にかざして審判しようという態度こそ、傲岸不遜な立場に思えます。
私たちの現代世界でのムスリムとクリスチャンとの無意味な対立を見れば、そう理解するしかないでしょう。
ゆえに、ナウシカの結末は、世に掲げられる理想や正義なるものを「いかがわしいもの」「疑わしいもの」として眺めよう、という課題提起にも見えます。
「転ばぬ先の杖」を蹴り飛ばし、自ら転倒する自由を求めよ、転倒したときの痛みを経験しよう、 と言っているように見えるのです。
ゆえにこそ、自分の考えを読者に押し付けることを目的とはしていないと、判断できるのです。
ただ、人類と地球環境・生態系のかかわりについては、それぞれの立場から真剣に考えてほしい、と願っていることは確かです。
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