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ところで、ここで寄り道して、指導法や教育法について考えてみましょう。
ここでは指導する=教える相手は、もはや「子ども」ではありません。自立したおとなの若者たちです。
もっと突き放して、相手に自立的に選択権させ、失敗も含めて自己責任を発揮させるべきですね。
教育とは《対話》です。ディアレクティーク(対論法)であって、対話的な真理=方法の発見過程なのです。
一方的な押し付けは、教育とはいえません。いや、それは、ごく初歩的・原始的な段階の例外的手段です。
そういえば今、教師や指導者の「体罰」とかが問題になっていますね。
それにしても、教育=指導とは難しいものですね。
私の、ごく狭い経験で言うと、「最もすぐれた教育は、一見、育成された人間から指導者の痕跡が消え去っているもの」だと確信しています。
けれども、その人の高い到達点や実績をよく考えてみたら、そういえば、あの指導者、師匠がいたんだ!という発見があるような。
というのは、こう考えるからです。
ある弟子が成功した場合、その人は自立した専門家になっているので、師匠が指導・教育したときの影響は、周囲の人間からは見えません。
ただし、当の本人にとっては、心の深くに、師匠の指導・教育をつうじての交流・対話が、きわめて大事な経験として深く刻印されているのです。それは彼のアイデンティティの一部になっているはずです。
そんな関係性が成り立つような師弟関係が、私には理想です。
「俺が育ててやった」なんていう痕跡が表面に明白に残っているようでは、エピゴーネン(先達によく似た後継者、物真似)の再生産ではあっても、自立的な専門家を育てる教育・指導とはいえないのではないでしょうか。
西岡教授は自分について、こううそぶきます。
「私はねえ、やる気のない学生にやる気を起こさせるほど、やる気のある教師じゃあないんだ」と。
「でも、学生はお客さん」。だから、学生本人の目先のニーズに満足感をもたらす必要がある。
そのためピアノの厳しい専門的な訓練から逃げる「のだめ」の要望に合わせて、「おなら体操」なんかの作詞作曲、振り付けの検討に付き合ってきた、と自嘲気味に語ります。
とはいうものの、学生の才能を見抜く目は千秋と同じくらい、いやそれ以上に高いようです。センスもいい。
ただし、自分自身では、学生の育成に携わらないというように、一歩も二歩も退いています。
むしろ、「化学変化」の触媒となって、のだめに千秋を指導者として引き合わせたり、江藤先生へのバトンタッチを誘導することになります。
しかも、千秋にのだめの指導をやらせたのは、行き詰っていた千秋にヒントを与えるためだったり。素晴らしい指導力です。
音楽の才能の開花のため、打開策のための「化学反応」を活発に引き起こすために、材料(人物)を物色して組み合わせることが好きらしいのです。筋書きを立てるのが巧みで、読みが鋭いというわけです。
いつも、ものごとの傍らに立って冷静に客観的に観察しています。
過去に何かあって、挫折を経験して、自分の限界に謙虚になりすぎてしまっているのかもしれません。自嘲気味に自分を観察し、抑制している。
しかし、本当はピアノの指導能力は恐ろしく高そうに、私には見えます。