中学から大学までの教科書には、江戸時代は「封建制身分社会」として説明されています。封建制とは何かについては、あいまいな解説があるだけです。大いに疑問があります。
ここでは、古代中国漢帝国の「分封建国」の仕組みという意味での「封建制」ではなく、ヨーロッパと日本の中世盛期までのレジームをさす用語として「封建制」を使用します。
ただし、私は教条的なマルクス派が言う「封建的生産様式」なるものは存在しなかったと考えています。法観念も含めた統治=軍事システムとしてのみ「封建制」は存在したにすぎません。
江戸期は、私の見方では、ヨーロッパの近代初期=近世と非常によく似ています。
この時代は、地方分散型のレジームから集権的国家への移行期の最後の時期で、身分制が長い解体過程に入り始めた時期にあたります。
そして、島国日本ではじめて国民的規模での統治レジームが形成される時代です。いってみれば、Nationbuildingの最初の局面です。
16世紀末までに、日本では列島規模での地方領主による王権形成をめぐる闘争の時代(戦国時代)が、織豊政権の出現によって終局を迎えました。
この時期に、とりわけ豊臣政権によって、いわば徳川幕藩体制の基礎=前提が築かれました。
そこで、問題になるのが、「太閤検地」と「刀狩り」という2つの政策の意味です。
教科書では一般に、農民と武士階級との身分区分=差別の確立、そして農民に対する武士身分の支配と抑圧のレジームであるかのように描かれています。
しかし、最近の地方史の研究によれば、検地はむしろ農民階級からの強い要求に応じて採られた政策という側面が支配的だということです。つまり、強まる農民の圧力に押されておこなわれた統治レジームの形成過程なのです。
刀狩りも、主要には農民階級の要求に応じての政策なのですという。農村農民を無防備にし、無抵抗にするための政策ではなかったらしいのです。
むしろ、14世紀以降、持続的に土地・耕地の開拓と開墾を進めてきた農民層は、拡大した農地に対する自分たちの耕作権や用益権を統治組織の側から認めてほしいという要求を打ち出したのです。
どれだけの農地をどの農民(集団や家族)が保有し、どの範囲の権利があるかを、耕地面積測量と収穫の検査によって、制度的に確認=確定したということです。
もとより、耕地は課税対象となり、農民たちは貢租の上納を義務づけられますが、その負担感よりも、統治権力によって耕地面積・耕作権を公式に認定してもらう利益の方がずっと大きかったというわけです。
そして、とりわけ戦乱期=戦国時代から農村に居ついていた在郷武士や傭兵崩れが、農村や農民に対して、武力や私兵団の力を背景に、不当な権力を行使しないように、武器を没収し、兵士の集団を解体し、在所における農村の農民自治組織の権限を認めるというのが、刀狩りの趣旨でだったということです。
2つの政策を担保するために、豊臣政権、続いて徳川幕府政権は、地方領主による農民への貢租徴求権を厳しく制限しようとしました。
江戸幕府は、一方では徳川派に同盟した領主層(親藩・譜代)の同盟によって、他方では人口の圧倒的多数を占める農民層の支持によって、地方の領主の権力を掣肘し、幕藩体制に統合していこうとしたらしい。
したがって、農民は内部に階級的・階層的分化をはらみながらも、総じて豊かになり、経済的な影響力を拡大していったわけです。
農村の指導的農民は、蓄積した資産と政治的指導力を背景に、農村手工業の育成をも手がけながら、磁場商業を担い、さらに日本列島規模での遠距離貿易に参入していきました。富と権力を蓄え始めた都市の商人とも、対等に渡り合ったらしいのです。
そういうわけで、当時「百姓」とは農民を意味する言葉ではなく、都市部を含めて在地で生産活動・商業活動をおこなう民衆全般を意味する言葉でした。
日本独特の農村での「商業資本の形成と蓄積」が展開していったのです。
ただし、資本の蓄積と政治的・経済的特権の集積という点においては、江戸や大坂、京都などの大都市の有力商人と比べれば、いくつも桁が下だったかもしれません。
列島=国民的規模での遠距離貿易組織の形成という点では、大坂。江戸などの都市商業資本が江戸中期以降、圧倒的な優越をみせていきます。