次に手続きについて
奉行所や評定所による犯罪捜査では、幕府の指導・公認していた刑事活動も、それなりに厳格な手続き、書類管理方式が採られていました。
町奉行所では、容疑者の尋問にあてっては、現場取調官の自己判断による押圧的な尋問は抑制され、拷問は厳禁されていました。
拷問は、現場の要請により⇒与力⇒奉行⇒若年寄というように調書と上申書・拷問許可願いを提出して受理されなければ、通常、おこなうことができなかったのです。
現場の判断で勝手にやれば、越権行為、逸脱として処罰されました(免職になることになる)。
奉行所の取調べにおいて拷問が必要だという判断は、取調べの同心、判例記録係りの同心、与力、奉行が評議して検討して、おこなわれました。そのうえで、上記の手続きです。
要するに、犯罪捜査、糾問手続きの正当性は、日常の江戸の都市行政や統治に協力する町役人や庶民の理解を得なければ成立しなかったわけです。
というのも、町奉行所の正規の行政官は、ごくわずかな数の与力・同心たちでしたから、平和秩序の維持や犯罪抑止に関して、江戸市民の協力がなければ、およそ巨大都市=江戸の統治と行財政の運営はまったく不可能だったからです。
行財政には、刑事警察活動も含まれていました。
文化に関していえば、
安藤広重や葛飾北斎などの印刷絵画が企画、原画制作、出版され、庶民の市場に流れていったが、このような庶民的な市井の芸術文化が発達するためには、身分制が厳しい社会では、あのような独創的な芸術が生まれ、庶民のあいですに流通しますことは困難です。
江戸後期の独特の都市文化は、身分秩序が実質的に空洞化してきていた証左だともいえます。
ヨーロッパでは、市民革命のずっとのちまで、身分制が幅をきかしていました。フランスでも、フランス革命直後から復活した貴族制や身分特権が、革命からゆうに100年以上のあいだ、堂々とまかり通っていました。
してみれば、日本はヨーロッパと比べても、近代初期の市民社会の実態には遜色がありません。
ですが、明治期から1970年代まで学者先生方(左派の教授も)は、ヨーロッパの「市民革命」に大きな幻想を抱いてきました。
というのは、革命期の「宣言」や「章典」などの書かれた記録をありがたがっていて、庶民の経験という視点を欠落させてきたからです。社会生活の実態、つまり社会史の視点が欠落してきたのです。
そして明治政権は、自己の近代性と正統性を押し出すために、江戸時代を後発で低位の「遅れた社会」として描き出しました。
そのため、政府側も左翼反対派も、日本の歴史がヨーロッパとはいかにかけ離れ、異質で遅れているかを「批判」することが歴史学の方法論とされてきました。そして、「近代市民社会の幻想=理想」を発展の尺度として祭り上げたのです。