以上からして、
地方領国で、武士(代官)やそれと結託した御用商人とが、一般町民や農民を搾取し苛斂誅求をほしいままにしていて、
それを、徳川の紋所が入った印籠ひとつで、権威を見せつけ、力関係を転換する、
なんていう安直な社会関係、政治的関係は、江戸時代には存在しようがなかったわけです。
もっとも、水戸黄門の物語は、江戸後期に講談の世界で紡ぎ出されたフィクションだったのですが。
もちろん、身分制というレジームでは、課税権とか商業取引権などの特権は、特定の家門や人格に結びつけられたものでした。
特定の身分の保有者(保有家系)が、自分が保有する権益(徴税権、商業権の付与権など)を運上金=賦課金と引き換えに特定家系や団体に認めることが、比較的自由にできました。ただし、既存の株仲間からの強い反対があれば、見直しを迫られました。
というのも、株仲間は業界組織の徴税機関であり、「お上」への納税責任者だたからです。
その代わり、知行俸禄や特権売買などで得た収益によって、自分が責任を負う領域での行財政のやり繰りを「全面的に」まかなわなければならなかったのです。
統治=行政のために必要な財政収入を、官職保有者が自身で獲得しなければならなかったのです。そのために特権を高く売りつける必要があるわけです。
一方で、勝手な課税や賦課は厳禁されていました。
だから、行政権の保有者と有力商人団体は、連帯=結託し合わなければ、政治的な統治も業界の管理と徴税もまったくといっていいほど、できなかった社会なのです。
ゆえに、結託や特権付与そのものは、順調に統治レジームが運営される限り、何ら倫理的、道義的、政治的に責められる行為ではなかったわけです。
ただし、行政権を好き勝手に振り回すことはできません。完全な地方分権(というよりも地方権力の分立状態)ですから、将軍家の縁戚でも、地方領国や天領(幕府直轄地)での統治や行政に口出しすることはできません。
まして、ニセモノがいくらでもつくることができる印籠なんかを振り回して、権威の正統性を誇示することもできなかったのです。
要するに、「水戸黄門」は時代劇ともいえません。カリカチュアとでもいうべきでしょうか。
まず貨幣制度について
時代劇では、《金貨としての小判》が小銭同様にバラで自由に使われています。あれは、話をわかりやすくするための表現手法にすぎません。本当は誤りです。
小判は、幕府公認の「大口決済ないし為替決済用専門の地金貨幣・準備通貨です。合州国の1,000ドル札のように。貨幣化されたブリオンです。
したがって、政府(幕府)が指定した方式にしたがって使用しなければ、価値そのものが認められなかったのです。
まず小判1枚ごとに表面に金座の墨書きによる認証文字が消えたら、通用価値が認められなくなります。
そして、25両を1組として和紙に包んで封印し、金額を筆書きし、それを4つ集めて100両として、単一の行使単位とします。これにも厳重に封印し、朱印判を押捺します。
これ以外の使用法では、貨幣としての正当な価値は認められなかったのです。下手をすれば、本物の小判でも、ばらして使えば、あるいは表面の墨書きが消えれば、偽造通貨の行使の罪科になりかねません。
基本的に地金=貴金属貨幣ですから、見栄えよりは、金としての重量を優先します。そのさい、誤差は3分(3%:というのは金は柔らかく磨滅しやすいから)とされていましたから、97枚でも上記のようなパッケイジにすれば100両として通用しました。
ただし、金座の後藤家で検査して、品質と量目において、標準小判100両分の97%以上の含有金重量があると承認された場合ではありますが。
こういう場合、手続きのために、金座への届け出=報告の義務がありました。
1両は、時期によって変化しますが、そもそもは現在の10万円くらいの価値として、造幣され、妥当していました。インフレイションや貴金属の品位が低下すれば、どんどん価値は目減りします。
100両で1ユニットの使用単位になるということは、1,000万円以上の取引きの決済用だけに使用されたわけです。
いずれにしろ、庶民が日常的に持ち歩いて、支払いや両替に使える貨幣ではなかったのです。
そこで、日常の交換や支払い、簡易決済のための少額の金属貨幣が数多く鋳造されていました。1朱銀、1分金、文銭などです。