1944年8月7日、ドイツ陸軍少将(師団の司令官)、ディートリヒ・フォン・コルティッツは、ヒトラーによる直接の招命を受けて、プロイセンのラステンブルクの総参謀本部に赴きました。
そこで、大パリ管区の軍政総司令官に任命されました。
そのさいにコルティッツが受けた指令は、心を押しつぶすように重苦しい内容でした。
しかも、命令を伝えるヒトラーはひと頃の精気を失い、廃人一歩手前のようなありさまで、将軍はそこに狂気を感じ取ったといいます。
パリに向かう列車や自動車のなかで、コルティッツは、ドイツ国家と国民は、1人の気のふれた指導者によってとんでもない破滅の淵に引きずりこまれるのではないかという疑念にかられたといいます。
ディートリヒ・コルティッツは、シュレージエン(シレジア)の森林地帯に所領をもつ下級領主の家に生まれました。
祖父から彼自身まで、3代続いて陸軍に奉職する軍人家系でした。
ザクセン陸軍幼年学校を優等で修了したディートリヒは、その才覚を認められてザクセン公妃の小姓になりました。
第2次世界戦争では、1940年5月10日、ネーデルラントのロッテルダム攻撃に第16野砲連隊の中佐として参加。ドイツ軍の猛進撃の先頭に立ちました。
降伏要求に応じないロッテルダムに航空隊による無差別爆撃を命令し、この都市を全面的に破壊しました。
これは、司令部の爆撃停止信号が爆撃隊に視認されなかったためだったということです。
1942年7月24日には、クリミアのセヴァストポールの攻略で勲功を立てました。
翌年には、中央軍団に転属し、後退が始まった東部戦線で、撤退するドイツ軍の最後方でソ連軍の追撃を防ぐために、これまた退路となった市街や村落を破壊しつくしました。
彼は、作戦上必要とあらば、自分の感情を殺して、破壊に次ぐ破壊をいといません。
しかし、彼には軍事上の合理性、根拠があってのことでした。
というのは、自軍の移動や撤退で犠牲を極力減らすためで、敵側に攻撃・追撃の拠点(市街や集落)を与えないためだったからです。
そのコルティッツにして、ヒトラーのパリ破壊の指令は納得がいかなかったといいます。
占領や軍政統治の面倒な大都市は、すみやかに放棄して撤退すべきというのが、彼の判断でした。
連合軍はパリを迂回してライン河に進撃しようとしています。パリを連合軍に明け渡せば、むしろその進撃速度を落とすことができるはずだからです。
なにしろ、人口350万のパリは秩序を回復・再建するのに大変な手間がかかります。しかも石油や食糧など、膨大な消費物資を要求していて、連合軍は保有する軍事物資のかなりの部分をこの大都市にまわさなければならないはずです。
その分、ドイツへの侵攻の圧力は低下し、回復に時間を要するでしょう。その間に、撤収した各軍団を再結集させて、防衛線を固めることができるはずです。
ヒトラーは新聞の大見出しになるようなできごと、つまり大衆受けする「シンボルの操作」を、異様に好んでいました。
パリの征服もまたその破壊も、要するに象徴的な意味をもたせたいのです。軍事上の意味はないのです。
ドイツの軍事的威勢の象徴として占領されたパリは、失うときには廃墟にしたい(敵にそっくり渡したくない)、というつまらぬ腹いせなのです。
ところが、パリはヨーロッパの顔ともいうべき都市で、歴史的遺産も数多くあります。
その都市を破壊すれば、その汚名は歴史に残るでしょう。
しかも、やがてドイツに攻め込む連合軍、とりわけフランス軍は、パリ破壊の報復をとことん要求するだろうと判断されます。
そのために、ドイツ国民の被害はかえって大きくなるだろう・・・
というのが、コルティッツの心境・判断でした。
コルティッツが憂鬱な思いを抱いてパリに赴任すると、自分が中将に昇格しているという連絡を受けました。だが、肩の荷が重くなるだけでした。