1944年8月、レジスタンスの実戦部門や官公庁・大企業の労働組合組織、そして国民解放委員会の各支部では、PCFが多数派を形成していました。
コミュニストたちの自己犠牲精神(献身的努力)と規律、戦闘性は、パリ市民から大きな支持や共感を獲得していました。
ところが、そこにいたる以前、PCFの抵抗・解放戦線への参画の経緯については、政治的・道義的に「多少の問題」があったのです。
フランス共産党PCFは、その成立の歴史的経緯からして、旧コミンテルン、すなわち(それを指導していた)ソ連共産党の影響力を卑屈なまでに強く受けていました。PCFはフランス人民自ら結成したというよりも、ソ連が指導するコミンテルンのフランス支部として組織され、党の中央指導部は長いあいだコミンテルンの直接の指揮下にあったのです。
その硬直的な姿勢は、フランスに対するドイツの侵略に対する態度に現れていました。
フランスとナチスドイツの戦争について、PCFは「帝国主義的列強諸国家のあいだの戦争」、資本家的強国どうしの戦争でしかない、という教条的なドクトリンを掲げ続けていました。
つまり、1940年初夏のナチスのフランス侵略と征服に対して、当初はいわば「中立」を保ち、静観していたのです。
フランスやイギリスとナチス・ドイツは、同じように世界市場での優劣をめぐって相争う資本家的な帝国主義的国家だというわけです。資本家どうし、帝国主義国家どうしは好き勝手に戦えばいい、という態度でした。
おりしも、1939年にソ連はドイツと相互不可侵条約を結んでいました。ソ連とナチスとの敵対・闘争は表面化していなかったわけです。そのことが、PCFの反ナチズムの姿勢を弱めていました。
ソ連共産党は、影響下の西側諸国の左翼政党に対して、反ナチズム運動を抑制するように指導していました。
コミンテルンは1936年の大会で、公式には「反ファシズム統一戦線」の課題を提起していました。ところが、それが具体化するのは、1942年以降です。ソ連が抑え込んでいたふしがあります。
それでも、フランスのコミュニストたちは、PCFによってすべて組織的に指導されていたわけではありません。フランス人はとにかく自己主張が強いといわれていますから。
当時、PCFは、形式的にはコミンテルンの影響下にありましたが、その構成員の組織を見ると、なかば自然発生的な左派社会主義者たちの集合だったということで、まだまだ中央集権的政党の体をなしていませんでした。だから、ナチスの支配に抵抗するコミュニストは多数いたのです。
PCFが本格的にナチスの軍事的支配に対して抵抗し闘争を挑むようになるのは、1942年6月にドイツ軍がソ連侵攻を開始してからのことでした。
このときまでPCFは、実質的に旧来からの「コミンテルンのフランス支部」以上のものではなく、フランスの国民的政党として自立していなかったのです。党指導部は、スターリン支配下のソ連からの支配や指導で右往左往していました。
とはいえ、ひとたびフランス解放闘争への参加方針を確定するや、ほかの政治組織に比べて卓越した組織力と規律、自己犠牲精神を発揮しました。
抵抗運動・解放闘争に多数のコミュニストやシンパを動員して、急速にレジスタンスと解放委員会のなかでの影響力を拡大し、また民衆の信頼と支持を獲得していきました。