不穏なパリにあって、在パリ・スウェーデン総領事のノルトリングは、中立国の外交官としての立場を利用して、ドイツ軍の支配下で抑圧された民衆を不当な逮捕や虐待、殺戮からできるだけ保護しようと立ち回り、孤軍奮闘していました。
ドイツ軍には、軍政統治をより柔軟にし、人道上の配慮をもってパリ市民に対応することを求め、解放勢力にはより穏健な抵抗(不服従)方法と自重をうながしていました。
が、事態は一触即発の気配を帯びて、緊迫、深刻化する一方でした。
それでも彼は、ドイツ秘密国家警察隊( Geheim-Staatspolizei )から「テロリスト」として追われるレジスタンスのメンバーを外交特権を使って匿い、あるいはパスポートや査証を発給して、中立国や連合国に脱出させていました。
そしていま、ドイツ軍にテロリストとして逮捕され囚人列車につめこまれてドイツの収容所に送られようとしている市民を助けようとして、駆けずり回っていました。
その男の妻から懇願されてのことだったのです。
ドイツ軍将校の手づるをつうじて、パリ総司令官コルティッツの助命釈放書に署名を得て、男の妻とともに囚人列車に追いつき、男を捜していまた。
妻が釈放書を示しながら夫を探し、ついに見つけました。しかし、秘密警察隊の大佐は釈放を拒否しました。
そして、逃げようとするその男を射殺させたのです。
ノルトリングの努力の多くは、このように悲劇的な結末に終わる場合が多かったのです。
それでも彼はひるまず、走り回っていました。この恰幅のよすぎる、精力的な大男を好演するのは、オーソン・ウェルズです。
1944年8月半ば、ドイツ軍とパリ市民、とりわけレジスタンスとの敵対はいよいよ深刻になっていました。
レジスタンスと解放委員会の内部でも、自重を求めるドゥゴール派と、蜂起を迫る共産党派との路線の対立は鮮明になっていました。いわば、パリは発火寸前だったのです。
いたるところで小さな火花が飛び散り始めていました。
すでにパリの地下鉄は、職員のジェネラルストライク(抵抗運動)で麻痺していました。燃料不足で市街を走るバスもありません。
パリっ子たちの最も主要な交通手段は、自転車と徒歩でした。
ごくたまに道を走るパリジャンの自動車は、木炭ガス燃料のエンジンで、屋根にガスボンベを背負っていました。
ガソリンを独占するドイツ軍の車両は、わがもの顔をして、高速で走ってました。
食糧や飲料は厳格な配給制でしたから、パリっ子1人当たり平均して1日1食分の食材しか確保できません。食糧確保のために市街で豚を飼育する者もあったのです。
早朝のシャンゼリゼ大通りは、豚の群れの散歩道になっていました。食用鴨を飼う家庭も多かったようです。しかし、それらは葬祭用の「備蓄」か非常食で、めった食卓にのぼることはなかったのです。
しかし、ドイツ軍やヴィシー政権への協力者( collaborateur:コラボラトゥール。市民からは軽蔑的に「コラボ」と呼ばれた)たちは、優遇され潤沢な食糧を確保できました。
差別と格差を持ち込むことで、ドイツ軍は監視と密告のネットワークを組織化していました。しかし、他方、協力者や密告者はレジスタンスによって「人民の敵」としてこっそり処刑=暗殺されることもあったのです。
横柄で抑圧的なドイツ軍に対する武力闘争への要求は、一般パリ市民やドゥゴール派のなかでも一段と強まり始めていました。
ドゥゴール派がこのまま慎重路線を取り続ければ、シャヴァンたちはレジスタンスと解放委員会の穏健派・中間派の支持さえ失い、孤立する恐れが出てきていました。
いずれにしろ、近いうちに反乱・蜂起を開始しなければならなかったのです。