一方、ドゥゴールは〈パリの解放委員会〉の出迎えを拒絶しました。
彼にとって、パリの解放委員会は1地方組織にすぎず、必要なのは国民的規模での権力樹立ないし共和制の復活なのです。国民国家の指導者としての、フランス共和国=国家の指導者としての「見栄え」を求めたわけです。
まして、コミュニストの影響力が強い国民抵抗評議会の出迎えなど受けたくなかったのでしょう。
彼としては、翌日、共和国政府の最高指導者として、凱旋門と無名戦士の墓碑からシャンゼリゼを通ってノートルダムまで行進するつもりだったのです。
「パリ市庁舎には行かない」。
パロディ(このとき、なんと警視総監になっていた)をはじめとするドゥゴール派の説得を、悪ガキのようにはねつけていたドゥゴール。しかし、首都市民に与える印象が悪くなると言われて、気分を変えました。
ところが、ようやく現れたドゥゴールの姿を見て、パリの民衆は熱狂しました。パリは異様な興奮に包まれていました。マスヒステリアのような状況が、ドゥゴールに幸運をもたらしたようです。
ドゥゴール自身にも計算外だったのですが、この劇的な「登壇」によって、首都と主要なメディアにおいては、彼の最高指導者としてのカリスマとヘゲモニーがこのときほぼでき上がってしまったのです。
ドゥゴールは、思い上がったギャンブラーでしたが、主要な賭けには、結果としてすべて勝ちを占めることができたのです。これの偶然の連鎖のなせる業です。
原作と映画がともに描くように、ヒトラーの破滅的な灰燼作戦から、パリが運よく逃れることを得たのは、いくつもの偶然が重なった結果でした。
ドイツ軍のパリ司令官がコルティッツ将軍だったことも、その要因の1つです。
彼は、軍事上の理由と目的が明確ならば、いかなることも躊躇なく実行する厳格な軍人です。
その彼にして、この局面でのパリ破壊は根拠も合理的理由がなかったのです。そして、将軍はヒトラーの正気を深く疑っていました。
成り上がり者のヒトラーと、厳しい訓練を経たエリート育ちのコルティッツの資質の差と言えば、それまですが。
コルティッツは若年にしてザクセン公の宮廷に仕えるエリートで、ヨーロッパの文明や芸術の奥深さと価値に早くから接していたのです。彼にとって、パリは、ヨーロッパの文明と文化の象徴だったのです。
そして彼には、パリ破壊を最後の最後まで延ばす、豪胆さと読みの深さがありました。
ドイツを裏切った軍人の家族も収容所送りにされるという状況にあって、連合軍に降伏せざるをえないような状況を巧妙につくり出し、あるいは巧みに待つことができたのです。
ドイツ軍の指揮・連絡体系の混乱も、幸運な偶然に数えられるでしょう。
コミュニスト派が連合軍への連絡使者として送り出したガロワが、柔軟な思考の持ち主で、独自の状況判断から連合軍を執拗に説得して、パリ進撃実行の決断を引き出したことも。
ノルトリングの仲介交渉もしかり。
ほかにもまだあるだでしょう。
ただ、パリを破滅から救おうとした多くの人びとの意図、意識、要望が、小さな偶然を大きな流れに結びつける接着剤、誘導要因だったことは確かだと思います。
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