シテ島の警視庁には、警察官たちがわずかな銃で武装して立てこもっていました。
警察官たちの前でドゥゴール派の指導者が演説し、共産党を出し抜いて政治的拠点を確保したと喜びました。しかし、つかのまの喜びでした。
ドイツ軍のコルティッツ将軍は、警視庁に戦車隊を派遣したのです。
ところが、ヒトラーと参謀本部が「迅速な派遣」を約束したベルギーからの支援部隊は来ていません。
ベルギー南部の機甲師団も、支援のためにパリに動く気配はありません。日中は連合軍の航空部隊が制空権を握っていて、移動はできなかったからです。戦車は陸上の戦闘に最適化された兵器で、側面の装甲は厚いのですが、空からの攻撃にはきわめて脆いのです。
連合軍が間近で対峙していたから、夜の移動もできません。
戦車団のパリへの移動で、ベルギーの防備が少しでも甘くなれば、連合軍が攻め込んできて、そこからドイツ軍の戦線の崩壊が始まることは明らかだったからです。
一方、ドゥゴール派の指揮で警視庁で占拠と蜂起が開始されたと知ったロルたちは、「出し抜かれた」と歯噛みしました。
ただちにPCFの組織を動かして、直ちに市街のあちこちでバリケイドづくりと武装闘争に踏み切りました。市民たちが蜂起したパリのいくつかのダウンタウン街区には、バリケイドで囲まれた「解放区」が生まれました。
けれども、重武装のドイツ軍に包囲され、蜂起勢力はしだいに孤立し、手詰まりになっていきました。食糧も弾薬もほとんどなかったのです。もって数日というところです。
ドゥゴール派も共産党も、互いの勢力争いのために、作戦も立てずに勝ち目のない無謀な蜂起に突入していったのです。蜂起さえすれば、何とかなるという衝動に駆られて。レジスタンスの前線メンバーたちは、政治権力闘争の犠牲にされがちなのです。
しかし、ドイツ軍もまた全面的な市街戦・ゲリラ戦に突入することを恐れて、本格的な殲滅戦を仕かけることができなかったのです。
そして、包囲網を維持して持久戦にもち込めば、武器弾薬も食糧もない反乱派はやがて自滅するだろうと見ていました。いまのままでは、反乱市民には勝ち目はないことは明らかでした。
危機的状況のなかで、ロル大佐は連合軍に、航空隊による武器投下を要請することにしました。そこで、PCFシンパのガロワを連合軍への使者として送ることにしました。
だが、すでに6人が派遣されていましたが、だれも連合軍陣営までたどりついていません。
ガロワは夜の闇に紛れパリ市街の「地下ルート」を通って、郊外まで何とか行きつきました。
この隠密の旅のあいだじゅう、ガロワはパリと市民の解放のために何が必要かを考え続けていました。その結果、武器の投下ではなく、連合軍のパリ市街への突入が何よりも必要だと判断したのです。