ドイツ軍と枢軸同盟は、1942年までは、ヨーロッパ大陸のあらかたを軍事的に征圧していました。
東部では支配圏域は、バルト海東端からノヴゴロド、モスクワの西、グルジア、カスピ海西岸および黒海北西岸をとおって、バルカン半島、地中海にいたる戦線に達し、西部ではブルターニュ、ビスケー湾からピレネー山脈をつうじて地中海にいたる戦線までおよんでいました。
地中海の対岸では北アフリカでも大きな勢力圏を保持していました。
しかし枢軸同盟の勢力は急速に後退していきます。
1942年冬には東部戦線は、ソ連軍の反転侵攻に押されて崩壊。43年春には、北アフリカ戦線も崩壊しました。
44年6月はじめには連合軍は、北フランスのノルマンディへの上陸侵攻を開始して、セーヌ河に迫っていました。
44年7月〜9月には、地中海でも西側連合軍の上陸・侵攻を受け、イタリア半島の中央部までを失ってしまいました。
連合軍がセーヌ河を越えれば、ジェット爆弾V1の既設の発射基地と、建設中のロケット爆弾V2の発射拠点のほとんどを失うことは、明らかでした。
ドイツ軍にとって、セーヌはまさにデッドラインでした。
劣勢に追い込まれたドイツ軍の内部では、ヒトラーとナチス(正確には、国民社会主義ドイツ労働者党:Nationalsozialistisches Deutsches Arbeiterspartei)の支配への批判が渦巻き、ヒトラー追い落とし策謀が動き出していました。
44年7月20日には、ラステンブルクのヴォルフスシャンツェ(Wolfsschanze:「狼の巣穴」と呼ばれる総参謀本部)の参謀がヒトラー爆殺を企図しました。が、失敗し、共謀者や一族もろとも誅戮されてしまいました。
軍の指揮系統も混乱し揺らぎ始め、前線の将官たちには厭戦気分がしだいに浸透していました。兵卒や下士官の士気と規律も目に見えて緩んできていました。
いったいに、正規の軍事教育を受けて、視野が広く、長期的視点に立つドイツ国防軍(Wehrmacht)のエリート将校・将官ほど、ドイツ軍の先行きとヒトラーの方針に深い懐疑をいだくようになっていました。
暗殺陰謀が直属の部下たちによって企てられたことを知ったヒトラーは、この頃から精神状態が悪化し、手の痙攣や発作的な激昂を繰り返すようになっていました。
そして、いったん語り始めると、周囲を無視して延々と話し続け、止まらなくなりました。
それは、相手を説得するというよりも、自分の世界のなかを堂々巡りして抜け出せなくなるかのようだったといいます。ひどい鬱病ないしは突発性の乖離症かもしれません。