この作品では、事件というほどの大きなできごとが起きるわけではない。さりとて、ごく普通の日常を淡々と描くわけでもない。
3人の日本人女性がそれぞれ単独ではるばるフィンランド・ヘルシンキに旅して、サチエはごく普通の家庭料理を出す日本食堂を開き、さしたるあてもなくやって来たミドリと出会い、さらにマサコと出会う。という意味では、かなりに珍奇なできごとではある。
だが、突発的な事件や非日常のできごとに直面して立ち向かうとか奮闘する、という物語ではない。
3人とも、ごくごく自然体でマイペイスである。
その物語の運びは、日常生活や仕事であくせくしている私たちにとっては、不思議なほどに特異で安堵を与えてくれる。物語の舞台となった場所が、フィンランドのヘルシンキだからだろうか。
エアギターとかサウナ風呂我慢の世界大会や泥の海でのサッカー大会とか、何十年もの伝統を誇る珍妙な行事を一生懸命におこなう、というお国柄のせいだろうか。
個人の自由・自律と選択を尊重した教育制度とか、広大で美しい国土に少ない人口がゆったりと暮らしている、というイメイジのせいだろうか。
日本は、いい意味でも悪い意味でも「東アジアの国民(国家)」だ。
ヨーロッパ、ことに北欧諸国と比べると、圧倒的に人口密度が大きく、古来から人口の密集・集住を土台=前提とする農業構造(水田稲作)や都市構造によって社会を形成し営んできた。
だから、集団や組織の生き残りのために個人の自律が後回しになるような社会の規範や心理・行動スタイルができ上がってきた。
もちろん、人口の密集状態のなかで、互いの距離を保つ工夫もいくつもあるのだが。
だが、近代工業化とか金融自由化が進んでみると、どうも日本の高い人口密度の社会は、ことさらに不適応で住みにくい状況になってしまったような気がする。多かれ少なかれ、どこの国も不適応状態にはなっているのだが。
日本社会では、人びとは周囲の雰囲気を察したつもりで自らの行動を所小抑制し、他人にもそれを求めるために、私のような周囲の雰囲気を気にしない者には、過度の同調圧力がはたらき非常に生きにくい。
そんな私から見ると、大学生の「就職活動」は実に哀れな、愚かしい集団ヒステリアにしか思えない。そういう紋切り型の行動スタイルにどっぷり浸かって求人活動をおこなう企業もまた、独創性は後回しという経営スタイルが見え見えだ。
そういう社会では、主流となっているひとつのスタイルが危機にぶつかれば、社会全体が危機に陥ることにもなりかねない。
ところが、人口が少なく密集度が小さいところでは、個人の高い自律性を保たなければ、集団の生存も相互の協力も成り立たないだろう。自然環境と人口密度がそもそも人びとの接触を密にすることには不向きだから、社会が生き延びる方法としては、できるだけ一人ひとりの生存能力を高めなければならない。そして、各自の生き方や行動スタイルを多様にすることがリスクの分散になるわけだ。
独特の社会福祉の仕組みは、そのために生まれてのかもしれない。
人びとの接触の濃度が小さいから、シャイな性格も生まれるのかもしれない。
とはいえ、ほどほどの距離を保って協力し合わないと、社会が成り立たない。いざというときの結集力というか相互協力とか忍耐力は、逆に大きいかもしれない。他人に対する期待とか社会に対する義務感や期待感を強める工夫が社会福祉制度なのかもしれない。
何しろ、そうしないと社会が成り立たないのだから。
個人の自律と社会のなjかでの相互依存意識の両方を高める工夫というか……そういう生存スタイルが必要なのだろう。
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