この映画の主題は、ピアノ教師のマダムスザーツカと天才少年ピアニストとの出会いと交流、そして別れ(旅立ち)ということになるだろう。ピアノ教師と自立をめざす教え子との関係が中心かもしれない。
けれども、映像と物語の展開に取り込まれている話材(トピックス)は大変多いうえに、入り組んでいる。
制作陣は非常に考え抜いたプロットで、しかも抑制に富んだ演出手法で描いている。複雑な文脈を解きほぐすために、余計なお世話だろうが、私なりの解題をしておくことにする。
まず、親子(家族)関係がある。
それは、マネクと母親のシューシラ・センとの関係。マネクのピアノの師であるマダム・スザーツカも、また、マネクに人生と音楽を導く母親たろうとして奮闘する。厳格な指導者としてではあるが、少年を慈しみ、いとおしむ。
そして、スザーツカは折にふれて、ピアノと人生そして音楽の師であった母との絆を回想し、自分の悩みや迷いを克服するための大切な「よすが」としている。
家族という文脈では、スザーツカが間借りしている家の家主、エミリーと3人の間借り人たちとの関係も、また、家族を擬している。彼らはみな、大都会の真ん中で1人暮らしをする「孤独な現代人」である。
ところが、彼らの生活の場であるエミリーの家の近隣社会( neighborhood )は、ロンドン中心部の社会の荒廃と都市再開発の荒波のなかで、崩壊に瀕している。
1980年代、ロンドンの旧中心街は10年以上前から深刻化したスラム化、犯罪の低年齢化(ジュヴナイル・ギャングの跋扈)、と建築物や都市施設の老朽化が進んだ。アングロサクスン特有の「都市計画=都市政策の欠如」「市場経済万能主義}がもたらした帰結だ。
そこに、サッチャー政権の乱暴な規制緩和、それに対応した金融資産の投資対象の変化によって、大手ディヴェロッパー資本が「荒廃した旧中心街」の再開発への投資に乗り出した。
行政機関の後押しを受けて「地上げ屋」が跳梁跋扈し、札束や有利な移転条件を提示して、高齢化した家主たちから、不動産を買い取っていった。
高齢化、孤立化、住宅の老朽化、そして近隣社会の解体、それゆえまた治安の悪化と犯罪の増加・・・。
メトロポリス、ロンドンの古びた中心街に居残っていた(取り残されていた)高齢者たちは、「もはや、これが潮時」と決心して、残された老後を過ごすために郊外や近郊都市の高齢者向け住宅に移っていった。
この映画は、原作が描いた時代から離れ1980年代のロンドン中心街に時代背景を移して、さりげなくそんなシーンを何度も登場させて、幾重にも物語りに織り込んでいる。制作陣の視点の鋭さには、並々ならぬ批判精神や社会認識、歴史認識が潜んでいる。
こうして、イングランドを舞台とする映像作品として、この映画もまた、非常に重層的で奥行きの深い文脈=歴史シーンを描き出している。ブリティッシュ万歳!
さて、本題に入る前に、物語の重要な背景になっているロンドンのダウンタウン、ことにエミリーの家とその近隣社会のことを考えてみよう。
クロニクルとしてのこの映画に描かれている歴史の風景としてのダウンタウンを考察するのだ。物語の本論を読みたい人は左ボックスの目次でそれらしい場所にジャンプしてほしい。