さて、スザーツカは手の怪我が回復してレッスンに戻ったマネクとまた対立してしまった。マネクが、シューマンのピアノ協奏曲をこっそり練習していたからだ。
ユーリーナは心にもなくマネクを罵倒してしまった。スザーツカの剣幕に圧迫されたマネクは、動揺して、いつものの練習曲としてのベートーフェンをまともに演奏することができなかった。
その失敗のひどさに、スザーツカはつけ込んで、さらに強くマネクをなじってしまった。マネクは落ち込んだ。自分の目的意識や要求に沿ってスザーツカから演奏を教わることはできないのか、と。
ある日、スザーツカはマネクを連れて、今では郊外の高齢者向けフラットに暮らすエミリーを訪ねた。そこには、コードルも来ていた。
ティータイムの語らいのあと、スザーツカはエミリーと室内に残り、マネクとコードルは目の前を流れる川(運河)の畔を散策した。
スザーツカはエミリーをともなって、川に面したヴェランダに出た。散策するマネクの姿を見ながら、スザーツカは、エミリーに愛弟子の自慢をした。
これまで、マネクほどの才能を備えた教え子はいなかった。あの子は今までのどんな子たちよりもすごいピアニストになる。今、長足の進歩を遂げている、と。
スザーツカの性格を熟知するエミリーは、教え子に対する期待が大きいほど、教える態度が厳しいものになるのを心配した。
「いまどきの子たちには、ときには褒めて、長所を認めてやるべきよ。たまには、褒めてあげるの?」と。
「いいえ、今のうちに厳しくしごかないと。プロデビューしたら、厳しい競争や辛辣な批評家の罵声を浴びるのよ」と、心配を意に介さなかった。
一方、マネクはコードルに悩みと決意を打ち明けた。そして、近くロンドン・シンフォニーとの共演(ピアも協奏曲)でデビューすることになると告げた。
「そりゃあ、すごいな。でも、それをマダム・スザーツカは知っているのかい」
「いいえ。まだ話してないんです。話したら、こてんぱんにやっつけられるでしょう」
「そうだな。マダムの怒りまくる顔が目に浮かぶよ。でも、いずれはそうなるんだ。きちんと話さないとな」
マネクは、帰りの車のなかでスザーツカに決心を告げようと覚悟を決めた。
案の定、スザーツカはマネクの決心を聞くと、怒鳴りはしなかったものの、顔色が変わってしまった。そして、別れ際、プロデビューするなら、もう教えることはできないと突き離した。
それでも、マネクは今はもう引き返すわけにはいかない、と思った。
マネクも手許から離れていってしまう。その日、スザーツカはすっかり落ち込んでいた。気分転換に買い物に出かけた。
彼女の外出のあいだに、かつての教え子で、いまやヨーロッパの音楽界にときめく新進気鋭のピアニスト、エドワードがやって来た。
かつてのエミリー宅とその近隣一帯は、すっかり変わってしまっていた。街区には、「売り家」「売約済み」の看板がひしめいていた。エミリー宅は、外観が昔のままの姿で残っていたけれども、「売り家」の看板が掲げられていた。家主の部屋と1階のコードルの診療室はなくなっていた。
コードルは、腰を痛めたエミリーの専属整体師として、すでに高齢者用フラットに引っ越してしまっていた。残っているのは、スザーツカとジェニーだけだった。
エドワードが、懐かしげに家を見ていると、スザーツカが戻ってきた。彼女は、エドワードをお茶に誘った。
スザーツカはすっかり落ち込んでいた。そして、あの気丈なスザーツカが、エドワードに向かって泣き言を言い出した。「みんな、私を捨てていってしまう。あなたも10年前に、やはり私を見捨てていってしまったんだわ」と。
やはり、マネクと同様に、エドワードも将来を嘱望された天才児だったが、16歳のとき、プロデビューをめざしてミーレフの教室に移っていった。そして、またたくまに、ヨーロッパのピアノ音楽界で頭角を現した。
それは、ユーリーナにとって、大きな打撃だった。
先頃、エドワードは東欧でのコンサート・トゥアーを大成功のうちに終えた。ロンドンに帰ってくるとすぐにスザーツカを訪ねたが、会うことはできなかった。それで、スザーツカの誕生日の直前にエミリー宅を訪れ、スザーツカへの誕生祝いをエミリーにことづけた。
それが、パーティでエミリーがスザーツカに渡した、ラフマニノフのブロマイドだった。エドワードの東欧トゥアーのメインテーマは、ラフマニノフ曲集だったのだろうと推察できる。
そのエドワードがスザーツカに言った。
「いいえ、お母さん。私がステイジでプレッシャーに負けそうになり、気が挫けそうになるとき、傍らに立って、さあ、姿勢を正して、顔を上げて、ほら、こうして指を動かすのよ、と教え導き、勇気を与えてくださるのは、あなたなんです。
私が大観衆の前で演奏するとき、すぐ隣で励ましてくれるのは、あなたなのです、お母さん!」
ユーリーナにとっては、意想外の言葉だった。そして、はじめて健気な教え子たちの心情を理解した。
ユーリーナは、腕を差し出したエドワードの胸に顔を沈めて泣き出してしまった。悲しみと喜びと、感動。