ある日、スザーツカのもとに、インド系の30代の飛び切り美しい女性がやって来た。彼女はシューシラ・セン。息子のマネクをユーリーナ・スザーツカに弟子入りさせるためだ。
シューシラは息子の天才的な音楽の才能、とりわけピアニストとしての資質を見抜いていた。その才能を伸ばしたいと望んでのことだ。
シューシラは、インドではデリーの名門上流家庭の妻だった。この美しい母親は、13年前、身勝手な夫と別れて、息子と2人でロンドンにやって来た。ひどい浮気癖で家族を顧みない夫に嫌気がさして、2歳のマネクを連れてロンドンに移住してきたのだ。
そして、インド出身の女性たちが暮らすフラット(賃貸の共同住宅)に身を寄せている。立ち振る舞いからして、インドの上流階級出身の女性らしい。
ブリテンの首都ロンドンで専門職能がなければ、下積み仕事しかない。だが、望みと自尊心は高い。つまり、収入を得て生活を立てる術に疎い。
苦しいときには、インドからもってきた装飾用の貴金属・宝石類を切り売りして、しのいできた。
いま、シューシラの生計の道は、菓子(ケイク・生菓子)作りと配達。ロンドンの有名な高級菓子店の委託従業員だ。自宅に材料を持ち帰って、ケイクとかクレイプをつくって、得意先に配達する。店側の要求は厳しい。
が、シューシラは大雑把だ。サーヴァントにかしづかれる生活が長く、気配りをする訓練が欠けているからだ。
これだけでは、都会での生活には心もとない。けれども、美貌のシューシラには、インド系の富裕な実業家のボーイフレンドがいる。彼女の自尊心を傷つけないように、いろいろな援助をしてくれている。
それでも、母子家庭だから贅沢な暮らしができるわけではない。にもかかわらず、息子マネクをお金をかけてピアノを習わせようとしてきた。
彼の才能を開花させれば、やがては名誉と高収入が手に入るようになる、というもくろみがあるのだろう。
マネクと母親は、インドで600年も前から続くシタールの名門演奏家(世襲の身分となってきた)の家系の出だ。
シタールとは、インド古来の弦楽器で、大きなバンジョーのような形をしていている。通常、つま弾く弦は7本くらいだが、その下に十数本の共鳴弦が張られていて、じつに複雑な和音を醸し出す。
シタール演奏家は、世襲の身分でもあって、その家系に生まれた子どもたちは幼い頃から、厳しい訓練を受けて育つ。そのなかの最優秀者が家の職を継ぎ、子孫を残し、英才教育を施して秘伝の技法と才能、そして血筋を守ってきた。
マネクも先祖たちと同様に、シタールの音色を子守唄として育ち、繊細な音感やリズム感をごく当たり前のように身につけてきた。並みの音感ではない。
この血筋と才能は、マネクのピアノの資質にいかんなく現れている。
マネク・センは15歳の中等学校生で、母親似の飛び抜けた美貌(深い知性を湛えている)を持つ。
マダム・スザーツカは、ごく自然にピアノの前に座り、優雅に鍵盤を叩くマネクの素質に一目で惚れ込んでしまった。翌週から週2回(しかも合計10時間近くにおよぶ)レッスンが始まった。