ユーリーナがマネクを指導しようと決めたのは数日前。近くの中等学校での音楽発表会でのことだ。
この発表会は、学校(校長)と地区の教育団体が共催する、音楽分野での「英才教育プログラム」のための行事だった。
地区ごとに、ピアノやヴァイオリン、フルートなどの才能がありそうな生徒を特別に訓練してその発表会をおこなう。
そこには、学校側が一流の音楽指導者――ピアノやヴァイオリン、フルートなどの教師――を招待して、才能や素質を評価してもらう。タレントを発掘して、彼らが英才教育を施してみようと決めた生徒の指導を依頼するのだ。
その場合、必要経費や指導料金は、本人やその家族の負担は一切ない。全額、学校と教育団体の奨学基金から支払われる。
こうして、年少のうちから才能逸材を発掘して、英才教育を施し、音楽界に人材を送り込んでいくシステムだという。
発表会の日、スザーツカは、優雅だが古風な出で立ちで、すなわちコートとマントを翻して学校を訪れた。19世紀末のロシア貴族の外出用正装であった。
だが、学校の子どもたちには「ドラキュラ伯爵」の老女版にしか見えなかった。子どもたちは、彼女を見て「レイディ・ドラキュラ(女ドラキュラ伯爵)」とはやし立てた。
このシーンは、頑固に古典主義的=貴族主義的立場にこだわるスザーツカと、現代を生き抜く少年少女たちとのあいだの「越えがたい溝」を表現したのかもしれない。シンボリックなシーンだ。
物語のなかで、マダム・スザーツカの年齢は明示されることはない。
彼女の母親がロシア革命の嵐を逃れてアメリカに移住して結婚し、ユーリーナを生んだということから考えて、1920年代生まれだろう。とすれば、マダムの年齢は60代半ば前後ということになろうか。
ということは、ピアノ教師を始めて40年くらいにはなるということか。才能ある少年少女へのピアノレッスン一筋に打ち込んできた彼女は、独身を通してきた。子どももない。
彼女の子どもは、すなわち教え子たちなのだ。心血を注いで育て上げ、人格の形成を援助・指導していく少年少女たちが、彼女の娘たちであり、息子たちだった。
そこで、子どもたちへの教育や指導の折にふれて、ユーリーナは母を思い出す。
自分が育てられ、育ったように、教え子たちの育成環境を整える。それが彼女の方針なのだ。つまりは、貴族的で、古典的だ。
要するに「古臭い」ということだ。だが、それは時代を超えて貫通する、大きな視野の人文主義精神でもある。
時代の流行や周囲の人間の思惑に媚びない。いや、そもそも無関心といえるほどの距離をおいている。
マネクにも、彼女はその方針を貫こうとする。
マネクは、母親に似て飛び抜けてハンサムな少年で、長身、手足の長い典雅な容姿をしている。そのうえ、音楽家家系としての気の遠くなるほどの長い歴史を宿した血筋を受けた、天才児だ。そこに、東洋風というかインド風の風貌で、黒髪と黒い瞳。
まさに、スザーツカが「音楽家はかくあれかし」と望むような逸材だ。
スザーツカはピアノだけでなく、人生全体の師=母親たらんと奮闘する。ピアノの演奏は、その人の人生の総体が投影されるとして、読む本や身だしなみ、身体の姿勢にも厳しい注文をつける。
当然、マネクの母親、シューシラとは、マネクの育て方をめぐって角を突き合わせることになる。2人は、マネクをめぐって、愛情の注ぎ方をめぐってライヴァル視し合うようになった。
マネクはといえば、アンビヴァレントである。
シューシラとスザーツカの意見や好みのあいだで板挟みになることもある。そして、思春期にあって両者への反発=自立心もある。
ただ、スザーツカのピアノの基本教育については、ときどき反発しカチンときつつも、深く尊敬すべき点が多いことも、直観的に理解できる。音楽については学ぶべきことが多いことを。
楽想を的確につかみ、それを心の持ち方(心情)と演奏技法に即座に移しかえていく、その方法論を、マネクは短期間に習得していった。