さて、ロンドン旧中心部の再開発ブームが始まってから、家主のエミリーのところにも、ディヴェロッパーのエイジェント=不動産ブロウカーが訪れるようになった。
近隣の住民の多くは高齢化し、治安が悪化していくこの地での老後の生活の先行きに大きな不安を抱いている。
そこにつけ込んで、不動産ブロウカーがやって来て、そう高額ではないが、そこそこの買取価格と――地区の行政機関と結託して――郊外の高齢者向け住宅の斡旋というような条件を提示し、売却を持ちかけていた。
それでもエミリーは、曽祖父の代からこの地にあって、彼女自身も生まれ育ち、今日まで住み慣れたこの邸宅を手放すことには、躊躇逡巡していた。
そこで、ブロウカーは区参事会(council:行政当局)の建築物担当者を買収して、エミリーのところに同行させた。
担当者は、「内壁などの修復をしなければ住宅としての継続使用は難しい」と難癖をつけて、ついにエミリーに売却の決意をさせたのだ。
サッチャリズムのもとで、ロンドンの旧市街を管轄する自治体は、民間資本による再開発投資を呼び込むために、この場面のようにディヴェロッパーと結託して、古くからの住民の立ち退きを促進していた。
大都市は財政逼迫と旧市街地の荒廃に直面して、住民福祉よりも、再開発のための民間投資の呼び込みを重視する政策に転換していたのだ。
このとき、エミリー宅の周りの住宅のいくつかには、すでに「売家(買い手求む)」の表示が掲げられていた。どんどん増えていきそうな気配だ。
さて、マネクは、基礎レッスンに集中的に取り組むために、ある週の金曜日から土曜日までスザーツカのもとに泊り込みをすることになった。というのは、その金曜日は、スザーツカの誕生日だった。スザーツカは、マネクだけでなく、この家の住人全員を招待し、自ら手をかけた料理を振舞うことにしていた。
このパーティは、同じ家に住んでいる――都会に孤独に生きる――人びとが集まって、擬似家族ともいうべき絆を強め確認する場でもあった。プレゼントを贈り合ったり、ワインやシャンペインを持ち寄ったり。和気あいあいと楽しく過ごしたひと時だった。
だが、それは、家主のエミリーにとっては、この家で住人の誕生祝いをする最後の機会だった。まもなく家屋を売却して、郊外の高齢者専用フラットに移転することになっていたのだ。
とはいえ、集まった面々は、これからもエミリーとの付き合いは続けていくつもりだった。少しばかり住居が遠くなって、たまにしか会えないのだが。
このあと、パーティに集まった人たちは、それぞれに自分の道を歩み出すことになる。
このパーティは、このあとの人びとの別れや出会い、運命の転換を予兆させる場面となっている。
ここで気になるのは、ユーリーナ・スザーツカが、エミリーが渡したラフマニノフのポートレイト(ブロマイドか)を伏せて見られないようにしたことだ。
それは以前の弟子のひとり(著名な若手ピアニスト)からの贈り物だった。その若者は、10年ほど前にスザーツカのもとから去っていった天才少年だった。それは、今後のマネクとの関係を暗示しているようだ。