ある日、音楽エイジェントのロニーが、ジェニーの部屋からの帰りがてらに、スザーツカの音楽教室に立ち寄った。天才少年ピアニスト、マネクについての情報を得るためだった。
だが、ピアニスト・音楽家としての基礎教育とか教養の習得を最重要視するスザーツカにとっては、お金と引き換えにピアノを演奏することを、一段低く見下していた。プロのピアニストをではなく、それを営利事業としてプロモウションする人びとを。まして、人間として、また音楽家としてまだ未成熟なうちに、そういう下劣な人物の誘いを受けてプロデビューするのは論外だった。
そういうことで、金を得るのは、芸術ともいえない未熟な技芸の切り売りでしかない、と。
ところが、ユーリーナがロニーを追い返そうとしているところに、マネクが入ってきた。
ピアニストを夢見る少年少女が、音楽業界にいる人間からプロデビューのことを聞き、自分の将来への希望を膨らますことはあるだろうし、それ自体は悪いことではない。
しかし、まだ15歳の少年がプロデビューのことを「業界関係者」と話すことは、芸術と金儲けを峻別するスザーツカにとって気に障ることだった。それで、ロニーを追い返した。
そのうえ、デビューへの「甘い夢」を見るマネクに、当り散らすように、きつい言い方をしてしまった。
そのため、その日のマネクの演奏はフラストレイションをぶつけるような乱暴なものになってしまった。その演奏の粗雑さを厳しく指摘されたマネクは、かなり落ち込んでしまった。
しかも、翌日の放課後、校庭でローラースケイ仲間と遊んでいるときに、少し無理をしたマネクは強く転倒して、手首と手を傷めてしまった。
かねてスザーツカから、スケイトは危険だからやめなさいと注意されていた。マネクはスザーツカをまた怒らせないようにと、母親に頼み込んで、「風邪で寝込んだためにしばらくピアノレッスンを休む」という連絡をしてもらった。
何日かして、マネクの住居にスザーツカが訪ねてきた。お見舞いの花とドストイェフスキーの『罪と罰』のペイパーバックを贈り物に持ってきた。しかし、マネクがスケイトで手に怪我をしたことを知ると、またもや険悪な雰囲気になってしまった。しかも、母親のシューシラとスザーツカは、マネクのピアノレッスンのありようをめぐって諍いを始めた。
貴族の末裔のユーリーナは、インドからロンドンにやって来た、寄る辺ない貧しいインド人母子の生活境遇の厳しさなどには、気が回るはずもなかった。
社会の底辺近くに生きる者たちの意欲と才能は、ハングリー精神によって伸長し、大きな成果を生み出すこともあるのだ。が、善意のスザーツカの厳しい言葉は、シューシラの上昇志向やマネクへの期待を非難するものだった。
じつの母親と「ピアノの母親」との対立感情。板ばさみにあったマネクは、深い苦悩に陥ってしまった。
そんなところに、シューシラは有名菓子店をクビになってしまった。
自宅でつくって配達した菓子のなかに髪の毛が混入していたためだ。菓子づくりの最中に別のことに気を取られて、手許に注意がいかなかったからだ。以前にも一度、厳重注意を受けていたため、怠慢と見られてしまった。
シューシラは、インドでは上流家庭の奥様として人に命じる立場で、彼女自身はもっぱら優雅に見える立ち振る舞いに注意を向けるように育っていた。日々の収入を得る労働での集中力や注意力は、身についていなかった。
ともあれ、デリーを出るときに持ってきた宝石や貴金属類は、あらかた売り払ってしまった。母子の主な収入の道が途絶えることになってしまった。
マネクはロニーが提案したように、できることならプロのピアニストとしてデビューして、母の代わりに収入を得たいと痛切に思うようになった。そこで、ロニーに会うことにした。