ミッキーが紹介したその事件は、容易に示談に持ち込めるはずの案件だった。
いまは深い昏睡状態から意識を回復する見込みのない、「植物人間」になっている若い女性、デボラー・ケイの妹夫婦が依頼人となっていた。
デボラーは難産のために切開手術が必要だった。だが、全身麻酔の失敗よる事故できわめて重い脳障害に陥り、医師団の努力もむなしく、新生児は死産、彼女自身も感覚と意識、全身機能を失ってしまったのだ。
病院医師団の一定の過失は明らかで、病院側も相応の示談金・賠償金を用意して交渉の準備をしていた。
相手は、合州国で最も有力なカトリック教会が運営する財団に直属する巨大な医療機関、聖カトリーヌ・ラブルール病院だった(カトリーヌは英語読みでキャサリンだが、ここではカトリーヌとして表記する)。
ほかに仕事の入るあてのないギャルヴィンは、この事件をめぐる資料(依頼人の訴えや事件の経緯)を読んでみた。
麻酔学の権威である医師の証言も容易に得られる見込みで、あとはデボラー本人の容態を証明する資料さえそろえれば、交渉でかなり高額の示談金が獲得できそうだった。
翌朝、事務所を出たギャルヴィンは、デボラー・ケイが入院している公立病院にやって来た。ポラロイドカメラを手にデボラーのいる病室に入り込み、たくさんのテューブで生命維持装置につながれて昏睡している彼女の姿を撮影した。
撮影しているうちに、ギャルヴィンは表現しようのない不可思議な感慨に襲われた。
若い女性が麻酔処置の過誤のために、赤ん坊を失ったうえに、家族を失い――意思能力の喪失を理由として離婚された――、自らの知覚や感覚、意思、つまり人生そのものを奪われてしまった。
私は、それを労力のいらない示談交渉だけで、そこそこの金額で「解決」しようとしている。もちろん、彼女自身と親族のためだが、同時にギャルヴィンの手数料収入のためでもある。
それでいいのだろうか。
デボラーの姿に、法律家人生の敗残者である自分の姿を重ねていたのかもしれない。
病院側が一定の過失を認めたうえでの示談だが、示談条件として病院の過失は公にされることはなく、結局のところ、弱者が大きな組織の力に抑え込まれたという形になる。
そして、いよいよ病院側と示談交渉に臨むことになった。
病院側の代表は、ブロフィー司教だった。
彼は献身的な聖職者だったが、一方でカトリック教会(聖カトリーヌ修道会)の権力闘争を勝ち抜いて今では大病院財団の経営陣の座にいる。つまり、したたかで冷酷な政治算術と戦略を駆使する組織指導者でもあった。
病院としては、当初は示談のために65万ドルという補償金の上限を設定していた。だが、医療事故専門の補償保険の顧問からは、裁判にもち込まれてもかなり勝算はあるから、示談交渉ではできるだけ金額を値切るように勧告されていた。
「節約」できた費用のうち何割かは顧問保険会社の報酬となるから、保険会社は示談金学をとことん値切ることになる。
司教は病院側の過失を認め、デボラー側に示談に応じる意図を示した。そこで、司教がギャルヴィンに提示した金額は21万ドルだった。当時の為替レイトで7,500万円。物価情勢からすると、2億円くらいか。
補償金の示談交渉ないし訴訟では、弁護士の成功報酬は、和解した補償金額の3分の1となっている。単純な3の倍数である21万ドルは、あたかも弁護士の報酬計算がしやすく誂えたかのような金額だった。ギャルヴィンは、それをたやすく見てとった。
司教が小切手で示した金額を見たギャルヴィンは、金額の根拠を尋ねた。返事は、それが顧問保険会社の示した「相場」だから、ということだった。
ギャルヴィンはさらに、心のなかで自問した。1人の若い女性が知覚・意識や人生、家族を失ったのにこんな金額による解決=決着のつけ方でいいのか、と自分に問いかけた。こんな悲惨な事故なのに、通り一遍の示談=和解で世の中の片隅に塗り込められてしまうのか、と。
ギャルヴィンは、選択を迫る司教の問いかけに、こんな示談交渉で済ますことはできないと返答した。
大きな組織の指導者が組織の権威を嵩にきての物言いだったせいかもしれない。デボラーの案件は、修道会や財団がかかえる数多くのトラブルのうちの1つでしかないという意識がにじみ出ていて、被害者の窮状への配慮があまりに欠けていたのだ。それがギャルヴィンの闘争心を呼び覚ましてしまったのだろう。
とはいえ、このできごとはフィクションゆえの極限的な状況設定である。実際の弁護士はこんな荒っぽい判断はしない。示談=補償金額を吊り上げる談判に持ち込むだろう。