「権力の腐敗」とか「組織の腐敗」を日本の政治や行政、企業などの組織に引きつけた考えてみよう。
そこでは、有力者の周りや下にいる人びとの反応・行動スタイルが、権威や権力を増長・暴走させる1つの大きな要因となっているようだ。
私はその昔、研究の世界からスピンアウトして企業組織に入った経験を持つ。
そのときに感じたのは、個々人はしっかりし、知識や技能もそこそこあるけれども、自分が属す企業組織の《本来の目的》や《職務の目的》が何かについて、自分なりの定義がない、いや表に出てこないということだった。
そういう目的や任務よりも企業組織や職場に自分を合わせる、適応させることに、むしろ気を使っている、エネルギーを使っているのではないかと感じた。
いわゆる「空気を読む」というやつで、しかも水平方向よりも垂直方向(上の気配)にばかり気を使っている。その分、同僚や部下への配慮がだんだん失われていく。
私は、職場の人間関係や雰囲気よりも、その企業が何を目的としているか、この職場はいま何を追求・達成しなければいけないかをまず第一に考え、その原理原則の展開線上に自分の職場と職務を位置づけることが、何より重要だと考えた。
「助っ人」として勤務を始めたからかもしれない。
新卒ではなく、それなりの専門家として、特定された目標の追求が求められたから、一般の従業員とは位置づけが違っていたのかもしれない。
その分、任務の遂行度合いは高かったが、上司や経営陣へのマーケティング(職場内政治配慮)が弱かったため、処遇というか、足場が弱かった。
仕事の関係で垣間見た中央官庁は、民間企業よりもさらに「組織慣習」や「組織風習」への適応が強かったように思われた。
それは、幻想とい言ってもよく、それでも、国民社会がほぼ同じ方向を向いて高度経済成長を追求する(それが可能だった)というある時代のある環境には相応の仕組みだったかもしれない。
けれども、そうした傾向が持続・累積していくうちに、前の時代からつくられてきた組織運営原理への「過剰適応」が当たり前になった。「優等生の原理」だ。
過剰適応は、それが有効だった歴史的状況や環境が変化すれば、とたんに停滞や混乱の原因となる。
状況の大きな転換とか危機の局面では、むしろ「主流から外れた」というか既存の常識や組織慣習から離れた発想が必要になるはずだ。
ところが、過剰適応しないと業績上、人事上まともに評価されない職場では、人びとに優等生的態度を求め、組織慣習への過剰適応を強い、突出や変革の芽を摘み取ることになる。
こうして、それまでと違った状況や環境への転換を考えた訓練や適応が阻害されることになる。批判精神や想像力は表に出しにくくなる。
状況が変わり始めても、組織の対応は変わらない。過剰適応からの離脱は、苦痛や苦悩をもたらすからだ。
つまり、状況が変われば、その組織が機能不全状態に陥るのだ。
しかし、組織内に少しだけでも批判勢力や異端者(反乱分子)がいれば、いいかもしれない。
ところが、組織の経営者や管理者は、組織の慣習や風習を変革するよりも、この機能低下を糊塗し隠蔽して、それまでの居心地の良い状況や環境(地位や立場)を守ろうとする傾向が強い。
官庁の契約業者との癒着、談合への主導的関与、裏金づくりなどの腐敗は、組織内でそれを拒む人間がいれば、圧迫し、その慣習への適応を強いた結果ではないか。
組織の本来の目的を再確認すれば、状況の変化のなかで運営方法や形態、意識の持ちようをどう変えるか見えてくると思うのだが。
それで、もし目的自体がもはや意味がないとすれば、組織を解散するか、そうでなければ目的そのものを取り換えて、組織を組み換えるべきだ。
ところが日本では、30、40年前に計画構想された大型公共投資事業(たとえば諫早湾干拓とか八木沢ダム建設とか)が、旧来慣行墨守を誇示する官僚や政権党によって強行されてきた。
いったん事業を始めればそれに見合う利害構造ができ上がるので、もはや引き返しようがなくなって泥沼、袋小路となる。
そういう組織傾向は、やはり腐敗とか、そこまでいかなくても、組織の機能不全ys責任の放棄などにつながっていく危険性が高い。
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