彼女は必死に訴えた。
「署名は私のものです。…ですが、書類の作成時には、私は食後の経過時間を1と書き入れました。
ところが、麻酔事故が起きた後になって、タウラー博士から、難手術の連続で疲労がたまり、調査票の数字を見落としてしまった、調査票の数字を書き直してくれと迫られたのです。
私にはできませんでした。ほかの誰かが1を9に書き直したのです。
そんなことがあって、私は看護婦を続けることができませんでした。
あんなひどいこと……あのことが、私から看護婦という天職を奪ってしまったのです。あんなに憧れ、そして誇りだったのに…」
語り終えると、ケイトリンは泣き崩れてしまった。一瞬にして、法廷には深い静寂が広まった。
証言が終わると、判事は宣言した。
「いまの調査票のコピーをめぐる証言は、証拠として認められません。この証言を裁判記録から削除します。陪審員は、いまの一連の証言とコピーはなかったものとして、審理に当たってください」
一方、判事の裁定に対して、ギャルヴィンは異議を申し立てなかった。ギャルヴィンは、ケイトリンとの打ち合わせのときよりもはるかに深刻な証言内容、そしてケイトリンの苦悩の深さに、強い衝撃を受けていた。
あまりに重苦しい事実の前に、彼は言葉を失っていた。
あの事件で人生の軌道が狂ってしまったのは、デボラーと妹夫婦だけではなかった。もう1人、献身的で誠実な看護婦が「神の召命=天職」とも思い定めた職業キャリアを奪われてしまったのだ、と。
裁判の公式記録上は、ケイトリンの証言は消去されてしまった。けれども、事実の重みは陪審員を含む法廷の参集者全員の心に強い衝撃を与えていた。
翌日、陪審員評決を前にして、原告側の最終弁論がおこなわれた。
だが、ギャルヴィンは、事態の成り行き以上に説得的な弁論を展開できるはずがないことを自覚していた。
判事から2度督促されて、ようやくギャルヴィンは立ち上がり、陳述を始めた。
彼の最終弁論の要点は、「自分が正しい判断を下せるのかを自らに問い、正義が人びとのうえにおこなわれるよう判断してほしい」ということだった。
弁護士の最終弁論としては、ほかにないくらい短く簡潔なものだった。
その後、陪審員たちは評議専用の部屋に移り、法廷の列席者は評決を待った。
やがて、陪審員たちは法廷に戻り、裁判長から評決が得られたか尋ねられた。
陪審員の代表は答えた。
「裁判長、評決が出ました。原告の訴えが至当、病院と医師の訴えは退けられるべきだという評決です」
そして質問を加えた。
「裁判長、陪審員団としては、病院からの賠償額は、原告の請求を超えた金額にすべきだとの意見に全員一致でいたりましたが、この意見は有効でしょうか」
裁判長は、正当な根拠を提示できれば有効となると返答した。
陪審員たちは、その返答を聞いて、安心し、これで自分たちの任務を誇りをもって完遂できると満足した。彼らは、病院側が上限としていた65万ドルを超える金額を提示するつもりだった。
こうして、デボラー・ケイと妹夫婦は聖カトリーヌ病院とその医師団に対する訴訟で大きな勝利を勝ち取った。
巨大な有力病院と有力な法律事務所とを相手に、ついこのあいだまで飲んだくれていたギャルヴィンと彼を助けるミッキーが、徒手空拳で、苦悩に満ちた努力と偶然とも言える幸運によって、勝訴をつかむことができた。
重い現実がのしかかる法廷審理、そして壮絶な人間ドラマ、素晴らしい法廷劇だ。
このような作品が、原作の小説でも映画でも大きな成功を得たことは、アメリカ社会の懐の広さというか、奥の深さを示している。