病院側はただちに周到な訴訟準備体制を築き上げた。
聖カトリーヌ病院の訴訟代理人=顧問弁護士は、ボストンで最有力の弁護士、コンキャノンが率いる法律事務所だ。
大規模な法律事務所は、「ローファーム( law firm )」、つまり「営利を追求する法務専門の企業」と呼ばれる。ファームは営利企業のこと。
法廷とそのほかの法務分野の「戦場」で、配下の法律家や調査員などの人員と情報、資源を動員して「勝ち」を得るために、戦略や戦術、策謀を駆使して戦う政治的・経済的組織というわけだ。司法の分野での権力闘争のための装置なのだ。
勝つためには、広告代理店やマスメディアを駆使して世論操作に利用するために資金や人脈、影響力をつぎ込む。
陪審員の心理や判断に影響をおよぼすためだ。
陪審員は、裁判期間中、自分の外部の事情に影響されないように、事件に関する報道、情報に接触する可能性のある新聞や雑誌の購読やテレヴィ・ラディオの視聴を原則として制限される。
だが、おのずから世論や風評は陪審員の心理に影響を与えるものなのだ。
訴訟に勝つためにローファームは、さらに相手側の証人探しを妨害するし、証拠の隠匿も辞さない。こうして、犯罪すれすれの行動を仕かけることもある(ばれないと確信があれば、違法活動も辞さない)。
そうやって、訴訟や示談法務で勝利を勝ち取り巨額の成功報酬や顧問料をもぎ取ることに、いささかの躊躇もない。
ところが、他方で限られた範囲ではあるが、貧困者や弱者に対する無料の法律相談を日常的におこない、それこそ徹頭徹尾献身的なサーヴィスを提供する。もとより、時間と労力の圧倒的部分は、富裕なクライアントへの法務サーヴィスに充てられるのだ。
法律家個人としてはどうかしらないが、事務所としては両方の活動が矛盾なく(いや、矛盾を気にも止めずに)遂行されているのだ。
コンキャノンは、事務所の主だった弁護士(パートナーとアソシエイト)や調査員を総動員して、訴訟対策ティームを組織し、自ら陣頭指揮を執ることにした。
なにしろ、カトリック教会と医療財団は、資金豊かで気前のいいクライアントなのだ。訴訟期間中は、事務所の誰ひとりとして休暇を認めるつもりはなかった。
ファームの人材を総動員して訴訟内容の検討、関係者対策を進めようとした。マスメディア対策としては、資金と人脈をつうじて「グローブ紙」にカトリーヌ病院医師団の献身的な努力と業績についての特集を組ませた。TV対策も入念に準備した。
病院の勤務者に対しても対策を講じた。病院の医師はもとより看護婦や事務職などにも、緘口令を敷き、ギャルヴィンとの接触を禁じた。
しかも、医療関係者への圧力は病院内にとどまらなかった。ボストン市やマサチュウセッツ州全般におよぶことになった。
ギャルヴィンが麻酔での過失について証言の約束を取り付けた医師は、医師会と勤務先の病院経営陣からの圧力で「カリブ海での休暇」に追い出されてしまった。
そのうえコンキャノンは、法曹界での確固たる影響力を行使して、弁護士時代に有力政治家や法曹界の重鎮に媚を売ることでようやく判事職指名を獲得した裁判官、ホイルが担当判事に就任するようにした。
アメリカの自由と民主主義は、かならずしも公正や中立をともなうものではない。ルールの範囲内であれば、団体や個人は持てる力を躊躇なく自由に振り回して、その優位を獲得しようとすることは自明の権利だと認められている。
法律事務所に所属する弁護士はパートナーとアソシエイトの2階層に分かれている。パートナーはその名のとおり共同経営者であって、事務所の経営権を分有する。これに対して、アソシエイトはパートナーに雇われて彼らの指揮命令権のもとで法務を担当する。
ただし、弁護士は自己の名義(権利と責任)において業務を営む独立のプロフェッショナルなので、従業員 employee ではなく、事務所という組織の協業者あるいは下位の仲間 associate と位置づけられている。