有利な材料はきわめて乏しいが、法廷での弁論による攻防が始まった。
ギャルヴィン陣営の証人、トンプスン博士への尋問では、やはり懸念したとおり、コンキャノンによる厳しい攻撃が展開された。黒人でエリート大学や有力病院勤務のキャリアがない点を衝いて、博士の資格や証言の説得力や信憑性を切り崩していった。
ただ、全身麻酔を安全に施すためには、最後の食事から一定時間以上の経過が必要であることが解明された。
全身麻酔の何時間前に食事時を摂ったかは、患者の安全にとって決定的に重要な問題だ。というのは、次の理由による。
全身麻酔処置を安全におこなうためには、直近の食事から(個人差はあるが)少なくとも4ないし6時間以上の経過が必要だという。全身に麻酔効果がいきわたるため、消化器官の筋肉もまた機能を麻痺させてしまうのだ。
4〜6時間以上経過していないと、胃のなかに分解途中の食物が残っている場合がある。すると、(胃から先に摂取物を送り出したり逆流を防ぐ機能がはたらかないから)その食物は胃から食道や咽喉まで逆流し、要するに嘔吐を引き起こしてしまう。
そうなれば、嘔吐物は気道・気管を塞ぎ、窒息をもたらす。全身を回る血液には酸素が欠乏する。脳や身体気管に酸素が供給されなくなる。そうなれば、とりわけ、脳は短時間のうちに酸欠による深甚なダメイジを受ける。
全身の機能制御をつかさどる脳が重い傷害を受ければ、永続的な全身の麻痺状態や死亡にいたることになる。
つまり最後の食事からの経過時間という事実を正確に確認することが医療ティーム、ことに麻酔担当医師に強く義務づけられることが確認された。
とはいえ、ギャルヴィンの旗色がきわめて悪い状況に変わりはなかった。
とかくするうちに、麻酔前の食事時刻の調査記録をめぐって、病院側になにやら隠された事情があるらしいことが突き止められた。
調査記録の文書担当の看護婦、ケイトリン・コステロが、いまは聖カトリーヌ病院に勤務していないのだ。ボストン市あるいはマサチューセッツ州全体でも、ケイトリンという名の看護婦が勤務している事実は確認されなかった。
つまり、その女性は事件直後何らかの理由で看護師を辞めて、どこかに消えてしまったのだ。
ギャルヴィンは、以前に訪ねた看護婦、ルーニーを勤務先の病院に訪ねた。そして、病院付属の礼拝堂で声をかけ、巧みな質問で、くだんの(元看護婦の)消えた女性が、現在、ニューヨークに在住していることをつかんだ。
ギャルヴィンはミッキーとともに調査を続けて、ついに、その女性が看護婦を辞めてから結婚して、いまニューヨークのダウンタウンに暮らし、幼児園の保母をしていることを突き止めた。
法廷では、聖カトリーヌ病院の麻酔科部長、タウラー博士への証人尋問が始まった。タウラーは、審理開始前からコンキャノンのスタッフと入念に証人尋問の予行演習をおこなっていたから、ギャルヴィンの鋭い質問にも自信をもって答えることができた。
たしか博士はこれまで概して有能で誠実、かつ厳格な医師として医療に当たってきた。
この尋問でも、全身麻酔の何時間前にデボラーが食事を摂ったのかという疑問が取り上げられた。そして、直近の食事が麻酔前何時間なら全身麻酔処置にとって危険なものとなりうるのか、が。
胃での消化が終わり胃に内容物が残っていない状態にしないと、麻酔で胃が麻痺して内容物が吐寫され、気道が詰まってしまう危険があるのだ。気道が閉塞すれば、呼吸ができず酸欠状態になって脳は損傷する。
ゆえに、必要な経過時間をおかずに全身麻酔を施すことは、タウラー博士自身が断言したように、ミスというよりも犯罪に近い重過失となる。
タウラーは、病院から証拠として提出された手術患者調査票を手にしながら、デボラーの食事は麻酔処置の9時間前だったと言明した。