ギャルヴィンは、聖カトリーヌ病院に勤務する、事故の日、手術に立ち会った女性看護師(当時は合州国でも「看護婦」だった)の1人を探し出し、証言を求めた。だが、彼女は冷たく拒絶した。
病院から緘口令の圧力を受けたうえに、立場の弱い看護婦たちは経営陣や顧問弁護士から強い圧迫を受けていたのだ。
現に、彼女の同僚は、この事件をめぐって病院を追われていた。顧問弁護士事務所のアドヴァイスを受けて、病院はアメリカ医療界全体に手を回したため、その女性は看護婦の仕事の機会さえ奪われる羽目になっていた。
ゆえに、彼女は法律家そのものに強い不信を抱いていた。ギャルヴィンには取りつく島さえなかった。
一方、コンキャノン陣営では、被告側証人、聖カトリーヌ病院の麻酔専門医(世界的な権威)を事務所に呼びつけて、想定問答を用意して証人尋問や証言、発現時の表情や強調点、話法などについて綿密な準備をおこなっていた。
ギャルヴィンが動くたびに、周到な包囲網が敷かれている事態を思い知らされることになった。彼は、絶望しかけ、敗訴を覚悟した。
いよいよ審理開始を翌日に控えたその日の午後。
判事や被告代理人との会見を終えたギャルヴィンとミッキーが裁判所ビル(法律関係の合同ホール)のロビイに出ると、デボラーの妹夫婦が待ち構えていた。
その夫は、ギャルヴィンの目の前にやって来て怒りをぶつけた。
「なぜ、和解に応じないで、訴訟に踏み切ったんだ。勝ち目のない裁判に。あの示談金で十分だったんだ。それで、義姉が介護医療機関に終身入院する費用はまかなえるはずだったのに。
妻の姉のために、私たちは財産と収入のあらかたを注ぎ込んできたのに、これでは先の見通しが立たないじゃないか。
毎日、妻は泣いている」
切実な訴えだった。
ギャルヴィンは、自分の正義感と目的のために、彼ら夫婦の経済的=財政的利益を深く顧みることなく、危険な賭けに打って出てしまったのだ。ギャルヴィンは、大きな成功で「負け犬」人生を返上しようとした自分の行動が、デボラー自身や妹夫婦の切実な生活上の権利を踏みにじることになりそうだ、と思い知った。思い上がりを恥じた。
だが、進む道はもはや闘いしか残されていなかった。
ここで私たちは、法律家の正義感や課題意識と当のクライアントの救済や権利の保護との相互関係という難しい問題に踏み込むことになる。
およそ被害者の救済や権利の回復をめぐる法律問題・訴訟では、当の被害者や権利を侵害・蹂躙されている人びとの尊厳を回復し、その利益の回復とか賠償=補償をかちとることが課題となる。
さらに、同じような被害や事件の繰り返しを防ぐために、あるべき法的権利の司法制度による確認、さらに社会制度や公的制度づくりを促進することなどが課題となる。
当然、どこの国でも、こうした訴訟を担う法律家のなかには、被害者個人(集団)の救済を、社会全体への問題提起や政府に対する制度改革や政策要求という自分たちの戦略やポリシーのなかに位置づけて、法廷闘争を展開する者がいる。
個々の被害の救済という対症療法的な問題解決ではなく、社会的・構造的に問題を掘り下げて解決するためには、それも長期的には有効な方法ではある。
あるいはギャルヴィンのように、示談による賠償金の獲得をするにしても、大病院組織の医療過誤の隠蔽という不正を暴き出し、その責任の大きさに見合った賠償金を獲得しようとすることもある。
だが、問題を広げすぎると、弁論や証拠・証人固めが難しくなる。訴訟は長期化するし、敗訴すれば、被害者の救済はさらに遠のく。
むしろ、対症療法と割り切って、個々の被害者を個別具体的に救済することも重要な任務だ。成果はやや小さくとも、確実に勝てる訴訟闘争に持ち込むことも大切だ。
法律家個人の正義感は、戦いを進める駆動力( driving force )ではあるが、それを緻密で効果的な法廷闘争・弁論に結びつけるのは、本当に難しい。