副王家の一族 目次
原題と原作について
見どころ
あらすじ
副王たち
シチリア
ウツェーダ家
憎悪を人生の糧とせよ
家門内部に渦巻く葛藤
修道院の内幕
1860年
ジャコモの錯乱
父子の葛藤
ジャコモの変わり身
1872年
コンサールヴォの帰還
フェデリーコの「嫡子」
テレーザの悲恋
コンサールヴォの転身
1882年
ウツェーダ公爵家の相続
1918年

1860年

  修道院の寄宿学校に押し込められ、鬱屈を抱えたコンサールヴォとジョヴァンニーノが肩を並べて歩く場面は、8年あまり後の1860年に変わる。コンサールヴォは19歳か20歳。
  イタリアの「国民的統一」をめざすガリバルディの遠征軍がシチリアに上陸し、ボルボーネ王権の軍を蹴散らしてカターニャにも攻め込んできた。

修道院の解体と没収

  遠征軍に呼応して青年派や都市民衆の自然発生的な蜂起が広がった。都市民衆の憤懣の矛先は、当然のことながら、ローマ教会・修道院に向けられた。貴族層は無気力な日和見を決め込みながらも、巧妙に立ち回り、革命=反乱派の攻撃がもっぱら教会・修道院に向くように仕向けていた。
  都市民衆の多くも、日頃から聖職者たちの傲慢や退廃に辟易し、憤懣を抱いていたから、遠征=革命軍の修道院・教会攻撃に手を貸し、略奪に参加したという。
  さて、カターニャにも革命軍が迫っていた。民衆が「ガリバルディ軍が来たぞ!」と叫びながら街路を走り抜けていく。
  それを聞いたコンサールヴォとジョヴァンニーノは、「ああ、これで修道院も解体されるぞ、ぼくたちは自由になるんだ!」と快哉を叫んだ。

  だが、修道院組織は、ガリバルディ軍が攻め込んでくる前に、自ら瓦解していった。遠征軍や革命派の攻撃を恐れていた修道院の院長や幹部たち、修道僧たちが手近の財産を抱えてわれ先に逃げ出してしまったからだ。だが、これまで清貧に甘んじ修道僧としての義務は戒律を守ってきた下層の修道士たちは、行き場を失い路頭に迷うことになってしまった。
  カルメーロ修道士もまた生活の場を失ってしまったが、ほかに行く場所とてないので、美術品や金箔で装飾されていた祭壇を略奪された廃墟となった修道院に修道僧仲間たちとともに身を寄せ合い、これまでどおりに赤貧の生活を続けていた。街中を托鉢して歩く活動もこれまでどおりだった。宗教者としての任務に忠実で誠実な彼らに対しては、街の人びとも寛容だった。
  国民統合(近代化)や革命が、必ずしも社会の進歩や民衆の生活の向上を生み出すわけではない。むしろ多くの下層民衆にとっては、生活の苦悩や苦痛が増幅される場合が多いのだ。

  修道院や教会から没収された所領農場は没収され、いったんは王領地に編合されたが、やがて金持ちのブルジョワ(成り上がり者たち)によって買い取られた。彼らは、利潤獲得のために――従来の修道院よりもはるかに――容赦のない過酷な経営=農民搾取を追求するようになった。修道院や教会の広大な所領農園で働いていた(小作)農民たちは、傲慢だが大雑把な修道院の農場経営に取って代わったブルジョワ地主の過酷な経営=搾取に呻吟することになった。
  こうして教会や修道院の所領・資産を没収し(つまりほとんど無料で獲得し)、成金たちに売り払ったことで、ピエモンテ王室の財政は潤い、遠征軍事活動によって借財まみれになっていた状況を脱することができた。北西ヨーロッパでは「宗教改革」によって16世紀におこなった王権の財政革命が、イタリアでは19世紀の後半になってようやく実現したことになる。

  とはいえ、コンサールヴォとジョヴァンニーノにしてみれば、家門当主の意向を受けて彼らを束縛していた修道院組織が解体してしまったわけだから、戒律や束縛に満ちた生活からの解放を意味した。勢力を持て余す若者として、彼らは町の酒場やダンスホール、娼館に入り浸ることになった。
  コンサールヴォにしても生活の場が失われたことは同じだったから、実家=ウツェーダ家の城館に帰ることになった。

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