副王家の一族 目次
原題と原作について
見どころ
あらすじ
副王たち
シチリア
ウツェーダ家
憎悪を人生の糧とせよ
家門内部に渦巻く葛藤
修道院の内幕
1860年
修道院の解体と没収
ジャコモの錯乱
父子の葛藤
ジャコモの変わり身
1872年
コンサールヴォの帰還
フェデリーコの「嫡子」
テレーザの悲恋
コンサールヴォの転身
1882年
コンサールヴォの転身
1882年
ウツェーダ公爵家の相続
1918年

1882年

   〈副王家の一族〉の結末シークェンスで提示された問題を分析することで、この作品へオマージュとしたい。この映画は、19世紀後半から20世紀初頭のイタリア社会・政治状況を考察するうえでは、非常に優れた話題と材料を提示している。それだけでも、歴史映画としては大成功を収めている。見る価値が大きい。物語は悲惨で暗澹たるものだが、まさにイタリアのレアリスモ(ネオレアリスモ)のお手本のような作品である。同じ時代と状況を描いている〈山猫〉とセットにして考えてみよう。

第108回 〈山猫〉と〈副王家の一族〉へのオマージュ  前回の末尾で始めた考察の続き。 1 国政でのトラスフォルミスモ  まず考えなければいけないのは、国民国家の形成期における議会制度の役割は何か、だ。  何よりも、各地の支配諸階級(諸分派)を議会装置をつうじて、国民的支配階級(エリート)へと政治的に組織化・統合すること。  そして、議会装置(と行政府)からの意見(公論)=情報発信(メディアも絡むことになる)をつうじて、エリートの利害や価値観を中核として国民的公論、国民意識(国民としてまとまるためのイデオロギー)を形成すること。つまりは、諸政策を国家意思の表出として形づくる仕組み、そういうイデオロギー的・政治的回路をつくり出すわけだ。  してみれば、議会での政治的討議・討論がおこなわれなかったということは、この2番目の機能が「正常には」果たされなかったということがただちにわかる。では、支配階級の政治的・イデオロギー的統合についてはどうか? ■国民形成におけるイタリアの苦難■  今日の日本の国会を見ると、議院での議論はメディア受けや世論への「ごますり」、論点のすりかえなどが横行する、きわめて欺瞞的な内容になっている。これは、制度としての民主主義が進展して、多様な諸階級や集団の利害を代表する勢力が議会に選出されたために、ある程度は不可避なことでもある。  つまり、複雑に対立する諸利害(妥協が困難な諸利益)を、エリートの利害を中核として調整し、折り合いをつけることができなくなり、政策を決定するためには、欺瞞やごまかしが必要になるからだ。  しかし、19世紀末のイタリアでは、議会の代表は、支配階級や優越するエリートだけからなる候補者がこれまたエリートや富裕ないし有力諸階級からなる有権者から選出されていた。つまりは、客観的には今ほど利害に深刻な対立がない状況なのだ。政治的敵対のリスクは、現在よりもはるかに小さいかに見える。  してみれば、議会で論争は、国家統治の危機や停滞をもたらすほどに深刻な対立や敵対をもたらしそうには見えない。議会での論争や妥協をつうじて、むしろ支配階級の融合ないし統合がはかられていくのは、さほど困難ではなさそうに見える。  しかるに、議会での公式討論がおこなわれない。なぜか。  たしかに、国民形成が完了した段階にある私たちから見れば、じつに不可解な状況である。  だが、1860年の時点では、イタリア王国という名目は成立したものの、北部の経済的・金融的主要部をオーストリア帝国によって征服・支配され、首都近辺にはフランス帝国の強い影響力がおよんでいた。悲観的に見れば、国家=王国はほとんど骸骨のような状態で、内臓や筋肉はこれから組織していかなければならない状況だった。  明治維新の段階で不平等条約によって束縛されていたが、国土には欧米列強の支配が浸透しなかった日本の方が、じつははるかにましな状況だったわけだ。しかも、国家的・国民的統一までにはいたらなかった(諸藩分立)が、徳川王権による疑似絶対王政支配が名目的に成立していて、そのうえに海洋によって外部世界から地形的に隔てられていた。この地政学的条件こそ、日本の幸運だったのかもしれない。  リソルジメント革命まで、イタリアは多数の政治的・軍事的に独立した諸都市や王国、公国などに分裂していた。独立した政治体にはそれぞれ支配者としての王侯、都市門閥、有力貴族(やその連合)がいて、固有の凝集性を備えた排他的な政治的・軍事的単位を形成していた。  これらの政治体は、ガリバルディの遠征軍やピエモンテ王の遠征軍によって軍事的に追い詰められ解体されようとしていた。そして、名目的にイタリア王国は成立した。けれども、各地の支配階級はいまだ従前の政治的結集や連合を保っていて、イタリアという国民的規模での政治的結集はこれから徐々に組織化されていくところだった。  つまりは、王国、公国、都市ごとに利害は対立していた。  王国議会の選挙がおこなわれたり、上院の議席を与えられたりして、それまで分立・対立していた各地のエリート・貴族層が議会に寄せ集められたが、彼らはまだ単一の国民を形成する集団として自らを意識していなかった。言い換えれば、1870年代にはまだ「イタリア国家」「イタリア国民」は存在していなかったわけだ。  日本のような「島国根性」がなかった。日本の幕末から明治初期の下級武士階級の「日本としての危機感」(それは「開国派」「尊王攘夷派」などへの立場の分裂をもたらしたが、日本の国家像というテーマをめぐる単一の闘争舞台=アリーナをなしていた)が、ほとんどなかった。  しかも、〈北イタリア(ミラーノやトーリノ、ヴェネツィアなどの有力諸都市、ロンバルディア、エミーリャなどの先進的農業地帯)〉と〈ローマ〉、そして〈南イタリア(ナーポリとシチリア)〉の3つの地域には、経済的にも政治的にも融合不可能に見えるほどに大きな差異と格差があった。つまりは、各地の支配階級の利害対立とか政治的・イデオロギー的対抗を深化・増幅する基盤が横たわっていた。  ガリバルディ派は、シチリアへの遠征の成功を後悔したとさえいわれている。そして、シチリアのイタリア王国への統合に反対した。イタリアを分裂させ、停滞させる要因だとして。 ■トラスフォルミスモ■  中央政権による王国統治は、こうしてきわめて困難な構造のなかでおこなわれることになった。しかも、西ヨーロッパでは、ヨーロッパでの優位と世界市場の分割をめぐって諸列強が相対立する状況にあって、イタリア国内部での深刻な利害対立を顕在化させるのは、きわめて危険なことだった。分裂は、外国列強による介入を招くことになる。  そのことは、さすがに自分勝手なエリート・貴族諸分派にもわかっていた。国内主要地帯のオーストリアからの分離独立がどれほど苦難に満ち、いかに大きな犠牲を払うものだったか、身にしみていたのだから。  というわけで、上下院の議員たちは、議院での討論をつうじて利害の対立点を鮮明にして論争し、妥協点を見出すという手法を避けて、院外での取引きや抱き込みによって多数派を形成し、立法や政策形成での主導権を握ろうと画策した。自分が代表する地方や集団の利害とか立場という原則によってどの政派・派閥に与するかを決めるのではない。  きわめて個別的・個人的な庇護・恩顧関係とか便益の供与、金品やポストのやり取り、威嚇や弄落によって、相手の変わり身を促迫する手法が政界を支配することになった。原則や目標、規律のない離合集散がまかり通った。  これが国政でのトラスフォルミスモである。  こうなると、政治家たちは、自分が代表しているはずの階級や地方の利害を中央政府の政策に組み込んだり反映させたりする努力を厭うようになる。論争や面倒な調整による諸利害の妥協や協調をはかることを避ける。その代わりに、自分や家門の栄達や利権を追求しがちになる。  ということは、それまで分立。対立していた諸地方の利害を調整・統合してイタリア全域を国民国家へと統合していく努力は後回しになる。すると、中央政府が、南部やシチリアなどの停滞気味で「遅れた」諸地方の経済開発を支援促進して、北部との格差を縮小させたり、こうした地方での深刻な貧困や民衆の抑圧状態を解消するための政策は期待すべくもない。  少なくとも、議院での公開の論争がおこなわれれば、たとえジェスチュアだけの振る舞いであっても、こうした「社会的公正」とか格差是正のための政策的要求が提起されたであろう。だが、外向きのポーズを気取る場さえも用意されず、ひたすら裏工作による駆け引きや抱き込みが横行し続けた。  つまりは、国民的規模でのエリートの凝集(cohesion)を組織化できなかったために、統治の危機に対する対応力・耐久性がなかったのだ。    こうして、深刻な南北格差・対立は緩和されることもなく、むしろ野放しの弱肉強食競争が展開し、南部の貧困と従属状態は拡大深化していくことになる。やがて、それが停滞とマフィアの跳梁をもたらすことになる。 2 議会制のあっけない崩壊  〈イ ヴィチェーレ〉の映像物語の終わりにコンサールヴォが独白したように、イタリア王国の議会が正規に招集されまともな議事が開始されたのは、1918年、彼が77歳のときだった。  おりしもヨーロッパには第1次世界戦争後の混乱と荒廃が席巻し、イタリアは深刻な経済危機と苛烈な階級闘争が展開していた。国内各地方の格差や対立も解消されていなかった。労働組合による工場占拠や右翼による襲撃、農民と地主との闘争も続発した。  社会党左派から共産党が結成され、台頭した北ファシスト党と激しく敵対・闘争する。政治的対立を抑制する秩序枠組みはなかった。  深刻化する危機のなかで、結局、国民的統合を確立できなかった支配諸階級・富裕階級は分裂し、指導権を失っていった。エリートとしてのアイデンティティと自信を失い、自暴自棄になった。権威と権力関係の空白につけ込んだのは、ファシズム運動だった。  こうして、1922年、ファシスト党が政権を掌握する。  王国議会は機能し始めて4年足らずで、ファシスト独裁の前にあっけなく崩壊した。いや、まともに機能することもなく、解体してしまった。というよりも、議会制度をつうじて支配階級が自らを国民的階級に融合し、国民的規模での政治的ヘゲモニーを掌握することもなく、いや、なかったがゆえに、ファシストの暴力的運動に屈してしまった。  そして、皮肉なことだが、ファシスト党こそが、きわめて歪んで暴力的な形態においてではあるが、支配階級(それまで政治的・経済的に最有力だったエリート)がなしえなかった国民的統合秩序=国民形成を推し進めたのだった。 ■ファシズムの歴史的意味■  ムッソリーニが指導したファシズムについては、歴史学的(政治的)にはただ単に否定的に評価されてしまって、その歴史的意味合いについては真剣に分析されることがなかった。政治や社会の例外的な「逸脱現象」としててだレッテル貼りするだけで。  しかし、歴史的に生じてしまったということは、それが出現し支配的になるまでの過程があったはずであり、その意味では偶然の連鎖のなかにそこそこの必然性があるはずである。「歴史の発展」という価値観には否定的な私だが、実際に生じた歴史的過程については、それが生起し支配的現象になるまでの事象の連鎖という意味での「必然性」はあったと見るのが、自然だろうと思う。  で、ここで、イタリアの19世紀末からの国民形成(国民国家構築)の過程の限界というか行き詰まりがあったことが明白になったのだから、この〈国民形成の危機〉という事態から、ムッソリーニのファシズムの出現と権力掌握の必然性を見ることができるだろう。  つまり、地方ごと、産業分野ごとに分立したまま、自分たちを〈国民的に統合された支配階級〉に組織化できなかったエリートが、深刻な経済的危機、政治的危機に直面して統治の展望を見失い、まさにヘゲモニーを形成・掌握できなくなった状況で、暴力的・攻撃的な秩序と統治を好む政治集団が旧来のエリートに取って代わり、形成途上の国民社会の深刻な分裂・断裂を避けるために、自ら好む統治スタイルを推し進めたということである。  あるいは、統治階級は茫然自失して、そのような暴力的運動を封じ込めたり、別の形態の運度を提起したりできなかったということだ。エリートは諦念のなかで、現今のレジームが維持されるのなら「ファシストでもいいや」という投げやりな気分に陥っていたのだ。  エリートは、ファシストがきわめて暴力的・粗暴な形態で政治装置やイデオロギー装置を占拠していくのを黙認し続けた。  したがって、そのような抑圧的・粗暴なやり方で、旧来のエリートが実現できなかった、確固とした国民的レジームを確立しようとした試みだったというわけだ。  そもそも、民主主義的形態が西ヨーロッパの政治史や国家史のノーマルな形態だと見る方がおかしいのだ。「民主主義のお手本」とされる、あのブリテンはどうだったか。  17世紀のピュアリタン革命から名誉革命の時期に、イングランドのエリート諸階級・諸階層にとっては、政治的権利の拡大をもたらした同じ政治過程が、他方で、アイアランドではジェノサイド=民族絶滅のごとき原住民への暴力的な抑圧と収奪が系統的に追求されていたことを見てほしい。  「ナチスもかくや」と思えるほどの残酷な戦闘や攻撃、破壊の仕組み=装置が創出され始め、それから400年間近く、軍事的・政治的・経済的な抑圧と収奪が繰り広げられ続けたのだ。それから220年以上にわたって〈世界帝国〉を構築していくブリタニアンの尊大で横柄で傲岸不遜な姿勢を見てみるがいい。  おのれの栄光には目をやるが、踏みにじられた者どもの苦痛や苦悩を知ろうとするのは、ブリテンが世界覇権を失い長期の衰退に入ってからだった。とはいえ、この知ろうとする態度は大切なことである。アメリカ人の現今の態度を見れば。  西ヨーロッパ諸国は、自国のエリートの政治的権力(その意味での「自由と民主主義」)のために、従属諸階級や周辺諸地域に対してきわめて過酷な支配や抑圧、収奪を展開したのである。  とりわけ、国民的レジームの形成期・創出期においては、暴力性と抑圧性は著しいものだった。  その側面については光を当てずに、もっぱら中枢部でのエリートの権力や市民的権利の拡大という「栄光の側面」ばかりに目を向けるのは、社会学や社会科学、歴史学の方法にそむくものであろう。  現代のイタリア国民国家の存立の多くは、ムッソリーニのファシズムの遺産(負の遺産)に負っているのである。ブリテンも、フランスもまた然りである。従属や貧困、被抑圧の軛に苦悩し血を流した多数の民衆あってこそのデモクラシーなのだ。そのことを忘れてはなるまい。  デモクラシーはコストとリスクの高い仕組みである。だから、そのリスクとコストをまかなうための資源を仕組みの外部から調達するのである。少なくとも、ヨーロッパや日本については、20世紀初頭ないし前葉まではそういう構造の歴史だった。  現在のリビアやエジプト、シリアやイエメンを見るがいい。デモクラシーの構築に、どれほどのコストとリスクが求められるのか、どれほど負担が重いのかを。まして、それらの諸国民(いや彼らはいまだ「統一的な国民」を形成していない。諸部族や諸地方に分裂したままで)は、外部から資源の収奪(抑圧を随伴する)をする条件がない状況下=時代に民主化(国民形成)を進めようとしているのだ。  さて、話題を戻そう。 3 〈山猫〉と〈副王家の一族〉をシリーズとして観る  このようにイタリアの19世紀末から20世紀までの変動を観察するために、〈副王家の一族〉はイタリア王国の形成の意味と限界を突き放した視点で冷静に描き出している。  単なる娯楽作品としてではなく、〈歴史映画〉として観るとき、すなわち歴史と社会を描くという課題の視点から見ると、この作品はすばらしい出来栄えだといえる。  〈山猫〉を制作したルキーノ・ヴィスコンティも、原作《イ ヴィチェーレ》の映画化権の獲得をめざしたけれども願いはかなわなかったという。〈山猫〉の姉妹作というか、別の角度から1860~80年代のシチリアの社会を描きたかったのだろう。  すでに見たように、〈山猫〉は滅びゆく者(滅びを選んだ者)の視点から、19世紀後半~末の貴族社会の変動を描き出している。レジームの転換期に、貴族層の変貌とか新興成金の台頭を交えながら、とりわけ没落に瀕した貴族から新たなエリートへの転身を企てる青年貴族の野心と行動スタイルをみごとに描き出している。  そこでは、知性や道義、名誉などよりも、目先の利害への執着や権力闘争でしたたかに生き残る身の振り方が優先される現実を突き放して描いている。  その事態を、旧い立場を代表するサリーナ公爵の目をつうじて見つめている。彼は、すぐれた知性の持ち主で科学者でもある。狭隘な利害への拘泥とか迷信から自由な洗練された知識人の視点が、前面に押し出されている。  〈副王家の一族〉でも描き出そうとする事態は共通している。ただし、旧い立場を代表するのは、高い知性の持ち主ではなく、目先の利害と偏狭な迷信に頑なにしがみつく知性の乏しいウツェーダ公爵(ジャコモ)であって、醜悪なことこの上ない。  そして、主人公のコンサールヴォは、恵まれた立場にありながら、立場の選択にいつも逡巡する優柔不断な青年である。  〈山猫〉のサリーナ公爵もタンクレーディも、自己の立場の選択に対してはきわめて明確で躊躇がない。  こうしてみると、この2つの作品は、登場人物の設定がきわめて対照的である。  であるがゆえに、相補い合う内容になっている。  両方を観ることで、私たちは、リソルジメント末期のイタリア(ことにシチリア)の社会状況をつかむことができる。  イタリア人の知識人・映画人は、自分たちの歴史を劇的に描くことに巧みだ。  〈山猫〉〈副王家の一族〉〈1900年(代)〉〈ゴッドファーザー Ⅱ〉をシリーズで観てみることをお勧めする。

前のページへ | 次のページへ |

総合サイトマップ

ジャンル
映像表現の方法
異端の挑戦
現代アメリカ社会
現代ヨーロッパ社会
ヨーロッパの歴史
アメリカの歴史
戦争史・軍事史
アジア/アフリカ
現代日本社会
日本の歴史と社会
ラテンアメリカ
地球環境と人類文明
芸術と社会
生物史・生命
人生についての省察
世界経済