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さて、新たに修道院付属寄宿学校に入れられたコンサールヴォを、ジョヴァンニーノともども指導教育する僧は、カルメーロ修道士だった。誠実で温厚、博識のうえに無欲恬淡として清貧に甘んじているカルメーロは、カターニャの有力な司祭=伯爵、ブラースコの異母弟だった。
コンサールヴォの祖父の弟だったブラースコは幼くしてある伯爵家に養子に出されたらしい。養子先の家門では、ブラースコの義父が司教(伯爵以上の身分)になるや、教会の広大な所領や資産を私物化し世襲の貴族のごとく振る舞うようになったらしい。ブラースコは聖職者にもかかわらず、多数の愛人をとっかえひっかえしてハーレムを築き、奢侈放蕩の限りを尽くしていた。
しかし、ブラースコは資産の食い潰しはせずに、知略と強欲を駆使して、没落した貴族の所領――債務の質流れ――を買い叩いたり、教会資産を横領したりして、またたくまに近隣でも有数の富裕貴族にのし上がった。そして今や堂々と臆面もなく伯爵を名乗っていた。
で、ブラースコの家系の主だった面々は、貴族となった家門に寄り集まり、その権力と富のおこぼれにあずかっていた。そして、ブラースコの異母弟、カルメーロをこれまた「厄介払い」のために幼くして修道院学校に送り込んだのだった。
いまやカルメーロは、世俗的な欲望から距離を置いて、信者や下級の僧たちから深い尊敬を集める修道士になっていた。
ところが、彼が勤めている修道院の指導部もまた、例にもれず、堕落と腐敗の深みに沈んでいるという有様だった。修道院長は、修道院資産を私物化し女道楽と酒池肉林に溺れていた。トップがそうであればその下の幹部たちも、自分たちの特権や権威を振りかざして奢侈放蕩に浸っていた。
ここはベネディクト会派が創設・主催した修道院で、僧院の幹部職もベネディクト会派が独占していた。修道院の権力と富を独占したのもベネディクト会派の修道僧たちだった。当然、奢侈や放蕩に耽る特権をも牛耳っていた。
ところが、早朝や夕刻の祈祷の日課とか町の人びととの交流や托鉢など、宗教者としての義務については怠惰を決め込んでいた。祈祷課――修道士の務めとしての朝夕の祈禱や托鉢の任務――を務めるのは、この僧院に身を寄せているカプチーノ会派の修道士たちだった。
一般の貴族の横暴も目に余るものだったが、聖界貴族もまたそれに輪をかけて権力と富に溺れていた。
そのために、1840年代から目立ってきた民衆のプロテスト――生活苦への憤懣から既成秩序への異議申し立てを貴族や教会組織にぶつけるようになり、それはリソルジメントに結びついていく――では、貴族の地方特権の廃止とともに、修道院や教会の権力と所領・資産の没収というスローガンが掲げられるようになっていた。だから、十数年後に一挙に進展したリソルジメント運動では、ガリバルディの遠征軍や民衆の反乱軍は、まず最初に教会や修道院を攻撃した。