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シチリアの副王( viceré / viceroy, viceroyal )とは、15世紀から始まるエスパーニャ王室アラゴン家の域外領地を統治する王の代官としての総督職についた有力貴族たちのことだ。エスパーニャ王権は、16世紀にアメリカ大陸やヨーロッパ各地に多数の領地や属領を獲得した。広大な帝国領を保持するために、シチリアも含めたイベリア域外の各支配地に――アメリカ大陸の植民地などにも――副王(総督)を置いた。有名なのはヌエバ・エスパーニャと呼ばれたメーヒコ(メクシコ)に置かれた副王だ。
それは、それぞれの領地の統治は現地の既存の権力者に委ねるという統治方式の制度上の表現形態だった。
すでに何度も述べてきたように、エスパーニャ王権は支配する諸地方の政治的・軍事的統合には成功しなかった。というよりも、そもそも統合とか集権化を課題として掲げたこともなかった。エスパーニャ帝国は、別個バラバラの支配地や属領、植民地の寄せ集めでしかなかった。
イベリア半島の内部ですら、カスティーリャの王権に対して、アラゴン=カタルーニャ、アンダルシーアなどは旧来からの統治構造を維持し続けた。しかも、カスティーリャ王国の内部でさえも、王権は有力地方貴族の独立性や分立を抑えることができなかった。
だから、王家の専制支配などというものは歴代エスパーニャ王たちにとってまったく慮外のことで、厳密にはエスパーニャでは絶対王政は成立しなかった。カスティーリャやエスパーニャの王権を(実証的検証抜きに)絶対王政の典型と見る日本の歴史学主流派は完全に間違っていることになる。
さて、イタリア南部もまた、地方ごとの分立が20世紀になっても色濃く残されていた。まして、ナーポリ=シチリア二重王国の時代には、ナーポリの王権に対する地方貴族層の分立性は著しかった。
結局、ナーポリのボルボーネ王権は、シチリアへの支配権力の行使(換言すれば、シチリア貴族層への統制)をあきらめて、現地の有力貴族(公爵や伯爵や大司教など)に副王=総督職を与えて、勝手にやらせていたわけだ。
さて、この物語に登場するウツェーダ――あるいはカタルーニャ語風に呼ぶとウゼーダ――侯爵家は、4世紀も前にアラゴン王国から移住した名門貴族の末裔ということになっている。だが、古ければ――富や権力の上にあぐらをかいて――家門は劣化するのが世の習いで、ジャコモは学問や教養というものを毛嫌いする偏狭な人物である。
家門をめぐる富と権力をわが手に独占しようとする欲望(貪欲)はものすごいが、かといって、資産を資本家的企業家として運用活用する知恵や知識にはきわめて乏しい。要するに、経済状況の変化を学び観察したりするのが嫌いで、ただ目先の欲に駆られているだけというわけだ。
さて、物語は1848年頃に始まる。コンサールヴォは7歳くらいか。
この年を物語の開始に設定することには、深い意味があるように見える。というのは、イタリアでは民衆蜂起の続発という形でリソルジメント運動が展開し始めた時期なのだから。各地の公国や小王国を分断統治する地方貴族層への民衆の反感や不満が火を噴き始めたのだ。
だが、展望を欠いた自然発生的な運動は、短い期間のうちに封じ込められ弾圧されていった。
この年、ナーポリ王国の憲法が公布された。民衆の反乱や抵抗に対抗する形で。南イタリアの旧弊なレジームはまだずっと先まで持続するかに見えた。
ところが、ヨーロッパ全体(大がかりな景気後退の局面に入ったこともあって)では大きな変動が起きていた。
1848年2月には、パリで2月革命が勃発。左翼や社会主義者の活動が活発になった。
ブリテンでは、チャーティスト運動が最高潮に達していた。
ヴィーンでも3月革命で宰相メッテルニヒが失脚した。ベルリンでも蜂起が起きた。
そして、この年、マルクスとエンゲルスの起草による《コムニスト政派のマニフェスト(共産党宣言)》が刊行された。つまり、資本主義的世界経済の景気循環運動は明白に破壊的作用を見せるようになり、ヨーロッパは政治的・イデオロギー的な変動にさらされていたのだ。
だが、シチリアは政治的に深い眠りのなかにあるかに見えた。