副王家の一族 目次
原題と原作について
見どころ
あらすじ
副王たち
シチリア
ウツェーダ家
憎悪を人生の糧とせよ
家門内部に渦巻く葛藤
修道院の内幕
1860年
修道院の解体と没収
ジャコモの錯乱
父子の葛藤
ジャコモの変わり身
1872年
コンサールヴォの帰還
フェデリーコの「嫡子」
テレーザの悲恋
コンサールヴォの転身
1882年
ウツェーダ公爵家の相続
1918年

ウツェーダ公爵家の相続

  この間に、父ジャコモは頭部の腫瘍が悪化して死去して、コンサールヴォは公爵家の地位と財産をそっくり相続した。
  ジャコモは、相変わらず医学と医者を毛嫌いし、医者こそが病原菌と疫病を蔓延させる元凶だと言い張り、あのいかがわしい尼僧の祈祷にすがっていた。そのために、病状はどんどん悪化していた。
  すっかり衰弱したジャコモは気力も萎えて、枕もとにテレーザだけでなく、対立していたコンサールヴォを呼んだ。そして、コンサールヴォに「この病気を持ち来たらしたのはお前だ。だから、この病を取り去って苦痛を取り去ってくれ!」と懇願した。
  そして、コンサールヴォの廃嫡宣言をした自らの遺言書を破って無効にするように促した。遺言書の破棄をコンサールヴォは躊躇したが、テレーザが引き裂いて、コンサールヴォによるウツェーダ公爵家の相続の道を切り開いた。
  こうして、コンサールヴォは、公爵位を継承し、最有力の貴族身分を手に入れた。とはいえ、政治家としては左翼の立場を維持することをためらわなかった。客観的に見ると、とんでもない自家撞着だが、先のような政策論理を用意していたので、彼自身は少しも「矛盾」を感じなかったようだ。

1918年――国政におけるトラスフォルミスモ

  コンサールヴォが王国議会議員になってから36年が経過した。コンサールヴォは77歳、議会での重鎮になっていた。そして、この年はじめて王国議会が正式に招集され議院での討論がおこなわれた。つまり、王国議会が創設され最初の議会選挙がおこなわてから半世紀以上が過ぎてからやっとのことで国政の公式の議論の場として議会が機能し始めたわけだ。
  代表院=立法院としての議会は、この間、眠り続けていたのだ。
  物語の結末では、この間の事情を重く突き放した口調でコンサールヴォが独白する。
  傍目には論理的に自家撞着した立場にあったコンサールヴォ自身は、自分なりの理想を誠実に追求し続けたようだ。シチリアの有力な貴族であるという地位が、彼をして目先の利害や欲得に突き動かされて政策をコロコロ変え右往左往するような真似を避けさせていたようだ。
  では、国民議会における王国各地の政治的代表が選ばれながら、半世紀以上も議会が招集されず(公式・公開の)討論や立法、政策立案がおこなわれなかった――議会外の政治過程で政派・議員集団を含めた権力闘争や駆け引き、利害調整などがおこなわれていた――のは、なぜ、いかにしてなのか。

  この問題を、別の記事で考察することにする。
  というのも、検討すべき論点が多いうえに、この作品は〈山猫〉とセット・シリーズにして社会史的に考察すべき脈絡にあるからだ。
  この間のイタリア王国の、ことに中央政府と議会をめぐる政治状況は、トラスフォルミスモ(トランスフォーミズム)と呼ばれる。そのときどきの状況や利害関係に応じて、政治家たちが自分の立場をコロコロと変えて、妥協と対立、離合集散を繰り返す状況を意味する。
  これは、政治家個人の立場から見れば、自己保身のための、ご都合主義の転身、巧みな変わり身であり、政治的サーカス、アクロバットである。
  全体として見ると、政治的勢力配置や力関係のめまぐるしい転換であって、買収、脅迫、取引などによる抱き込み、庇護=忠誠関係(クリエンテリスモ/クリエンティスモ)が横行する政治過程となる。
  これ以降の考察は、別の記事「〈イ ヴィチェーレ〉へのオマージュ」で扱う。

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