副王家の一族 目次
原題と原作について
見どころ
あらすじ
副王たち
シチリア
ウツェーダ家
憎悪を人生の糧とせよ
家門内部に渦巻く葛藤
修道院の内幕
1860年
修道院の解体と没収
ジャコモの錯乱
父子の葛藤
ジャコモの変わり身
1872年
コンサールヴォの帰還
フェデリーコの「嫡子」
テレーザの悲恋
コンサールヴォの転身
コンサールヴォの転身
1882年
ウツェーダ公爵家の相続
1918年

コンサールヴォの転身

  コンサールヴォは、とっさに事故死を偽装してどうにか幼なじみの親友の外向きの名誉を守ることにした。自殺者はカトリックの禁忌であるため、教会での葬儀が許されなかったから。彼の心には、ジョヴァンニーノの死の直前の言葉が刻まれていた。
「コンサールヴォ、冷酷になれ、強くなれ! 善人であることをやめろ! 力を手に入れろ。さもないと、俺のような屈辱的な敗残者になるしかないだんぞ!」
  ジョヴァンニーノの「遺言」もあって、コンサールヴォは今後の身の振り方を考えた。父のジャコモと仲直りしてその権勢に服従してウツェーダ公爵位と莫大な財産を継承する道を選ぶわけにはいかない。だが、敗残者にはなりたくない。そうなると、父のような旧弊なタイプの貴族になるのではなく、国民国家レジームが形成されつつあるイタリアの新たなエリートに成り上がるしかない。そのために、今の自分の立場を活用するしかない。
  というわけで、イタリア王国議会の議員選挙に立候補することにした。新たなレジームの政治エリートになることにした。

  で、コンサールヴォは大伯父のガスパーレを訪ねた。
  彼は、シチリアのカターニャ選挙区から選出された王国議会下院議員だった。ウツェーダ家を中心とする有力貴族門閥を背景として大きな影響力を持つ政治家だった。貴族の利害を代表する保守派=右翼の領袖だった。リソルジメントによる王国建国以来、右翼の政権が続いていた。
  右翼とはいっても、貴族の地位や特権の擁護を強調するだけで、ウルトラナショナリズムというわけではない。議会の議席の配置が、王権に一番親近的だとして右側の議院内の右側の席を占めるから「右翼」というだけの意味だった――フランスの総評議会や革命議会以来の伝統にしたがっているだけだ。
  だが、1870年代に入ると、右翼政権の統治はしだいに行き詰ってきていた。貴族や大地主の権利にプライオリティを置く政策に対して、あらたに選挙権を得た市民層から強い批判が寄せられるようになってきていた。そして、旧ガリバルディ(共和)派と中間派が連合して「左翼」戦線を結成して、民衆の支持を獲得していた。

  そこで、コンサールヴォはガスパーレ議員に相談した。
「私は政治家になろうと決心しました。下院議員選挙に左翼から立候補します。いまや、左翼と右翼との政治的立場の相違は大して意味はなくなっています。この選挙区で勝つためには、ガリバルディ派の支持が必要です。そのためには、左翼からの立候補が望ましい。
  そして、右翼は落ち目になっていて、やがて政権を失うでしょう。だから、多数派となるであろう左翼から立候補するのです。どうかよろしく支援してください」
「いいだろう。よく決心した。
  たしかに右翼と左翼との立場の違いは表面的なものだ。そして、やがて左翼の政権になるだろう。私の選挙区での後継者をお前に指名しよう」とガスパーレは返答した。

  右翼の領袖が、いくら身内とはいえ、左翼からの立候補者を後継者に指名するのだ。ここに、当時にイタリアの議会レヴェルでの政治状況のあり方が見えていくる。政治エリートのサークルの内部にいるガスパーレには、実際の政治的力関係とか利害関係の構図が読めているのだ。

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