ゆえに、やがてヨーロッパの各地で農地の開拓開墾が進み、多数の村落や都市集落が形成され始めると、地方で富と権力を獲得した領主たちが、王や旧貴族の権威とは独立の権力の担い手として台頭していくことになる。
彼らは地方ごとに城砦を築き、軍事的・政治的防衛の提供と引き換えに、周囲の農村を所領として支配するようになった。それが城砦領主だ。
そして彼らは、それまで名目上は伯や公の権限や権利となっていた統治権力や権威を奪い取っていった。こうして、彼らは所領や支配圏を拡大していく。
こうして旧来の王国や公領、伯領はあちこちで粉々に分解してしまった。
やがて、そのなかから実力を備えた領主が出現し、名ばかりとなった「西フランク王」から伯や公の爵位を授与されるようになっていった。
こうして、軍事力の保有と運用は、土地支配( Grundherrschaft )の属性、つまり領主権力( Regalien )の重要な構成部分となった。領主とその家臣=従者は騎士として、より上級の領主や君侯の求めに応じて年間の一定期間の軍役奉仕を義務づけられた。
すでに見たように、鎧甲冑をまとった騎乗の戦士、つまり重装騎士が効果的な戦力として機能するためには、乗り換え用の数匹の馬とその世話係や調教係、武具の管理運搬係、騎士を補助する軽騎兵など、数名から十数名の要員からなる「ティーム」が必要だった。
こうして、戦力としての騎士は、一定数の人員からなる独立の軍事単位=作戦ティームをなしていた。
そのユニット(小組織)をまかない、また騎士の武具を揃え馬を飼養するために、さらに騎士の戦闘訓練のためにも、かなりの収入が必要だった。
彼らを軍役に召集する君侯は、そのため、彼らが実効的に支配する所領を授封地(知行地)として安堵しなければならなかった。つまり、土地と農民への支配権、彼らから地代や賦課や貢納を受け取る権限だ。
しかし、このように王権が地方豪族(戦士身分)に独自に武装する領主としての地位を認めるということは、彼らがやがて自立的な軍事単位として独立していくことを可能にするということだった。
それゆえ王国はつねに、地方領主層が王権から自立していこうとする傾向に苦慮することになった。
こうしてフランク王国は、各地に新たに有力な君侯領主たちが台頭しするたびに分裂して、彼らの周囲に貴族領主団の同盟関係、すなわち地方的な王国や公侯国がつくられることになった。フランク王国はまず東西に分裂し、さらに地方ごとに分立していく。
それにしても、これ以降の地方王国や侯国は、以前の完全に属人的な団体よりも進んで、実効的な軍事力による領域支配をめざすようになる。とはいえ、「領土」を排他的に支配するための装置も思想もつくられなかった。
さて14世紀には、西フランク(フランス)王位をカペー家から継いだヴァロワ家は、パリとイール・ド・フランス地方を支配するだけの弱小な地方領主になっていた。
一方、有力君侯となったブルゴーニュ公、次いでノルマンディ公(アンジュー家)が新たな王権を構築し、すなわち領域国家形成をめぐる競争のトップを走っていた。
そして、南フランス・地中海方面にはカタローニュ侯や北イタリア諸都市の権力がおよんでいた。
フランス王国は完全に分解していた。