やがて、戦士身分のなかに相互依存の階層序列関係がとり結ばれ、より優位=上位の騎士が君主として戦役や統治を指揮する緩やかな臣従関係が形成された。
有力な君侯たちは、家臣や地方戦士たちに対して、騎士としての軍務奉仕と引き換えに、領主として一定範囲の村落や農地を所領として支配する権利を付与した。
重層騎士となるためには、何頭もの騎乗用の馬と馬丁、甲冑や槍、刀剣などの武具・兵器と従者団を保有しなければならず、それらを調達・維持するための収入が必要だった。そのために、戦士たちの支配地の農民や職人・商人から余剰農産物・手工業製品・貴金属などを貢租として取り立てる権限・権力を認める必要があったのだ。
君侯たちは、戦士身分=地方領主たちの臣従関係を基礎として、属人的団体(パースナルな同盟関係)としての王国や侯国を建設し、領主の臣従=軍務奉仕と引き換えに土地支配権を認める封建法的関係を組織していった。
8〜9世紀、西ヨーロッパの君侯たちの同盟の盟主となったカローリング家の王たちは、自ら主に騎馬の従者たちを率いて、あるいは従者団を派遣して、あちこちに散らばる部族集落や開拓地を巡行して、支配者としての権威を伝達して回った。
各地の部族(長)たちに王権への臣従を求めたのだ。反抗する部族(長)には戦を仕かけて重装騎士集団の突進戦法で蹂躙ないし威嚇した。
こうして、イベリア半島からイタリアを経てドイツにまでおよぶ地域に、名目上、フランク王の権威をいきわたらせた(フランク族の帝国)。
とはいえ、当時の輸送テクノロジーでは、日常的な支配や権威の伝達がおこなわれるはずもなかった。
王やその直属家臣(騎士団)がときおり巡行してきて評議会や裁判集会がおこなわれたが、彼らが去っていけばふたたび地方固有(ローカル)の秩序がもどってきた。
それでも、当時の共同主観としては、数年に一度の王の巡行や巡回裁判集会(これがやがて議会の原型となった)で王と地方領主のあいだでパースナルな臣従関係を形式的に認め合えば、王国の紐帯がとり結ばれたのだ。中世の王国や帝国の制度とはこの程度のものでしかなかった。
そこで、現実の統治では、フランク王は広大な「王国」を300〜400の「管区」=伯領(伯爵領)に区分して、現地の有力部族とその支配者(有力領主)の権威による統治にゆだねた。公領(公・侯爵領)は、地方の王侯としてきわめて大きな権力をもつ領主に認められた支配圏だった。
地方では、伯や公としての有力領主が家臣や中小領主たちと同じような臣従関係をとり結んでいた。とはいえ、王の統治も、各地での貴族(伯や公となった部族長や豪族)の支配も、多分に名目上の観念にすぎなかった。