傭兵と戦争の歴史 目次
傭兵とは何か
貨幣経済と傭兵
  中世ヨーロッパの都市
  宗教都市から商業都市へ
地中海貿易と北イタリア
  都市国家と傭兵
フランクの軍事構造
  封建領主の軍事力
  フランク王国の統治構造
  王国の軍事的再編
  分裂するフランク王国
  フランス遠征と傭兵
中世の終焉 百年戦争
  営利事業としての傭兵
ヨーロッパの軍事革命
  騎士の没落
  フランス王国の形成
  王室財政の限界
都市と遠距離商業
  船舶の武装
  都市と領主
「国家による戦争」へ
  強大な王権の勃興
  市民革命と軍事力の転換
  軍事力と戦争の国家独占
国家の統制力の減退か

◆宗教都市から商業都市へ◆

  しだいに都市集落には、遠隔地を遍歴して回る商人たちが定期市のために集まり、やがて定住して商業街区(市場区)を形成するようになった。
  こうして都市集落は成長していき、やがて有力な都市の指導下で植民や交易の拠点として新たな都市集落が建設されていった。内陸の諸都市を結ぶ遠距離貿易のネットワークも組織されていった。
  やがて遠距離貿易による距離を蓄積した商人たちは都市団体を結成して、しだいに都市領主である教会聖職者から市場開設権や徴税権、さらには課税権や市壁(城塞)建設権などを手に入れようとする。
  これに反発する教会や修道院とのあいだで、血なまぐさい闘争も繰り広げられた。しかし、商業の発達とともに都市商人団体の優位が確定し、やがて都市の統治権をそっくり支配するようになっていった。

  富と権力を得た商人たちが都市の支配権を握ると、今度は都市の自立を守るために、近隣の俗界領主たちとの対抗や闘争、駆け引きが待っていた。都市は周囲を厳重に城壁(市壁)で囲み武装する必要があった。
  はじめのうちは商人や工房親方など資産や家業をもつ市民たちが、業種や資産、地位などに応じて武装し防衛のための軍務を引き受ける義務を負った。やがて商業が成長して都市が豊かになり、兵器・軍事の技術が発達すると、豊かな都市は傭兵を雇うようになった。

  ところで、当時ヨーロッパでは、人口が2,000を超える都市集落はまれで、人口5,000を抱えていれば、もうひとかどの有力な巨大都市だった。

地中海貿易と北イタリア

  ところが、北イタリアはには人口1万、いや2〜3万を超える都市があちこちにあった。この巨大な人口を引き寄せ再生産していた要因は、地中海の遠距離貿易=世界貿易だった。
  これらの都市に定住する商人や商人団体は、居住都市を中心としてイタリアと地中海に広がる交易網を組織し始めていた。
  ことにヴェネツィアとジェノヴァは互いに競争しながら、12世紀頃から、ビザンツ帝国のレジームに巧みに絡みつき足場を固めながら、広大な貿易圏を組織化しようとしていた。
  その頃、ビザンツの帝国レジームいたるところで綻び衰弱し始めてはいたが、コンスタンティノポリス(ビザンティウム)は地中海東部ではまだまだ宗教的権威・権力と富の中心地として周囲を圧していた。

  ヴェネツィアの交易網は、北イタリア、アドリア海とコンスタンティノポリスを軸として地中海東部に広がっていた。その商業帝国の権力や影響力は、まさに各地に点在する小さな貿易=軍事拠点のネットワークをつうじて、広大な貿易圏やその内部と周囲に存在する多様な権力を味方につけ、あるいは支配・威圧し、封じ込め、商業世界に絡め取ることで、築き上げられていた。


ヴェネツィアの風景

  北イタリアの2大都市を筆頭とする諸都市と商人たちは、北イタリアを中心にして、東方に向けては、中央アジアから連絡する交易路の結集地となる黒海方面、あるいはインドやペルシアから地中海東部にいたる交易路の終点となるレヴァント(シリア海岸)に、通商および軍事上の拠点を築いていった。
  そして、やがて13世紀には地中海全体におよぶ貿易圏(地中海世界貿易)を形成した。
  というのも、長らくイスラム王朝によって支配されていたイベリア半島で、キリスト教君侯たちによるレコンキスタ(領土再征服運動)が進展していくつもの王国や侯国が形成され、それらの都市の商人たちがイタリア商人と競争したり提携して、地中海西部に貿易網を組織してきたからだ。

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