なかでもノルマンディ公=アンジュー家は、11世紀から12世紀にかけて辺境イングランドを軍事的に征圧し、辺境の王としても君臨していた。そして、名ばかりのフランス王の権威をまったく無視していた。
そして、フランス西部・北部とイングランドの両方の支配圏域や領地を統治するために、はじめのうちは直属家臣の領主(バロン)たちに軍役奉仕の義務を課して、王として海峡を越えた遠征や巡行に同行させていた。
ノルマンディ公とその直属家臣団は、イングランドと大陸フランスの両方に所領を保有していた。
だが、やがて王室への軍役免除税の上納と引き換えに、フランス遠征にさいしてバロンの軍役奉仕を免除するようになった。税によって得た資金で傭兵を雇い、直属の貴族を傭兵団の指揮官として派遣して軍事活動を展開するようになったのだ。
イングランド王の軍は、従来の重層騎士団よりも、長弓隊を中心とする歩兵団が主力となりつつあった。
ノルマンディ公は、独自の軍政をもって、西フランスとブリテン南部にまたがる独自の王国を形成しようとしていた。
大陸から海で隔てられているイングランドでは、弱小な地方部族を圧倒的なノルマンディ公の軍事力で平定したのち、王国の平和が容易に保たれた。
しかし、多数の有力な君侯領主たちが陸続きでひしめき合っているフランスでは、君侯領主層の同盟関係は猫の目のように変化して、しょっちゅう所領や覇権をめぐる争いが起きていた。言い換えれば、有力領主たちにとっては、支配圏域の拡張の可能性があるために、同時にまた自分の領地が争奪されるリスクがあるせいか、勢力争いが絶えなかった。
ノルマンディ公よりもさらに有力なブルゴーニュ公は、北西ヨーロッパの商工業の最先端地域ネーデルラントとラインラントを統治していた。そこで獲得した富と権力を土台に、やはり少数の直属家臣団と傭兵を用いて、フランス東部からネーデルラント、スイス、ドイツ西部にかけて、これまた独自の王国をつくりり始めていた(ブルゴーニュ王国)。
傭兵からなる軍が活躍したのは、「百年戦争」においてだった。
ただし、この百年戦争は、歴史教科書では「英仏百年戦争」と記されているが、間違いだ。
当時、国や国家としてのイングランドもフランスもなかった。フランスは分裂していて、有力君侯たちとその名目家臣ないし同盟者としての領主たちの諸集団が覇を争っていた。
なかでも辺境の属領イングランドを統治する王は、フランスで最有力の君侯であり、フランス西部に広大な支配地をもち、覇権争いの一方の盟主だった。
つまり、百年戦争の実態は、フランスの有力君侯のあいだの王権をめぐる争奪戦だった。そして、実際の戦役は、各地での局地的戦闘の(時間と場所を変えての)断続状態だった。
そうなると、フランス各地を傭兵団が闘いながら移動することになった。掠奪や強奪、破壊や威嚇で食糧などの必要物資を調達する荒くれ者たちが、フランスを縦横に荒らしまわることになった。