ともかく、この頃から、ヨーロッパ各地の有力君侯たちによる王権国家=領域国家形成をめぐる競争に、各地から集められた傭兵の集団が参加し、離合集散するようになった。
スイスや南ドイツ、スコットランドなどには、傭兵を「地場産業」として育成し、住民を武装・組織させて「出稼ぎ」「外貨獲得」にいそしむ地方があった。なかでもスイスの槍兵隊の勇猛さの名声はヨーロッパじゅうに鳴り響いた。彼らは、ローマ教皇庁の専属の軍務を引き受け、その後現在までその伝統が続いている。
またヨーロッパ大陸では、領主家系を「均分相続」制によって継承する地域があった。そこでは、有力領主の子孫たちも代が下れば、小さな所領しか保有できず、そこからの収入だけでは、貴族ないし騎士としての家産経営が維持できなくなった。
そこで、目をつけたのが、金銭的報酬と引き換えに軍事サーヴィスを提供するビズネスだった。彼らは、土地貴族としての名利を捨てて「傭兵」として、ヨーロッパ各地を転戦、活躍した。
彼らのなかから、いくつも勲功を立てて莫大な報酬・褒賞を獲得して、有力貴族にのし上がる者が続出した。
傭兵たちは戦場や遠征路では、武器や食糧を自ら調達しなければならなかった。いきおい武力で威嚇して、農民や都市集落から物資を強奪、略奪することになる。ゆえに、傭兵は訪れた地方の秩序の攪乱者、破壊者となることが多かった。
傭兵たちによる暴力や騒乱は、むしろ戦争が終わってからの方がひどかった。というのは、彼らは「失業」するからだ。
それゆえ皮肉なことに、戦役後、勝利した側が支配を安定持続させるために「域内の平和」を達成しようとすると、(戦いで勝つために集めた)傭兵たちが今度は大きな脅威となった。勝利して王座を手に入れた者は、傭兵たちを駆逐するのに四苦八苦することになった。
14世紀後半から15世紀にかけて、ノルマンディ公=アンジュー家(イングランド王兼務)を盟主とする貴族同盟が、フランス王国の大半にまで勢力を広げた。
ところが15世紀の後半になると、ヴァロワ家を中心とする諸侯の同盟が、アンジュー派を駆逐していった。
その背景には、ヨーロッパの軍事的環境の大変動があった。
この戦争の末期には、「ヨーロッパ軍事革命」の第一波が押し寄せていたのだ。
ヴァロワ王権同盟は、北イタリアで発達した攻城砲と火縄銃(歩兵が操る)を攻撃に取り入れ、槍兵(これまた歩兵)によって密集した隊列による防御戦を組織していた。
敵側でも、長弓や弩(いしゆみ)が攻撃と防御の主力になっていた。接近戦を仕かけようとする騎士たちに対して、遠方から長射程で貫通力の大きな弓で攻撃した方が優位に立てたのだ。
双方ともに、弓あるいは銃砲を操作する歩兵が軍の主力となり、騎士は戦力の主軸から外され、むしろ歩兵戦力の補助的・従属的な役割となっていた。
銃砲が攻撃の最前線に配置され、防御のための城塞は星型の稜堡で囲まれるようになった。戦争の形態が構造的に転換するとともに、銃砲の調達や築城構築に、これまでとはけた違いの資金が必要になった。