それまでヨーロッパでは、有力な王といえども、常設の軍備は保有できなかった。
あれこれ個々の戦役に応じて、王の顧問団や身分評議会(主に都市団体)によって戦時課税を承認してもらい、都市や商人団体から協力金・賦課金を集めて、これを担保に金融商人から融資を受け、ようやく家臣の領主や騎士に俸給を支払い、そして傭兵を募ることができたのだ。
このとき、やっと常備軍を雇うことができるような課税・徴税組織や借款制度が生まれ始めたのだ。
というよりも、王は金銭的報酬を支払って編成する常備軍を保持するために、名目上の支配地での課税権や徴税権、そして常設の行財政装置を組織化しなければならなくなった。それまでは王領(直轄地)の内部でさえも、まともな徴税装置、つまり恒常的な官僚組織はまったくとっていいいほどなかったのだ。
しかし王権の統治組織は貧弱で、家臣の貴族たちは商業計算を知らなかった。課税計算や徴税の実務は入札によって権利を買い取った金融商人に委託するしかなかった。
とはいえ、商人からの借入では、王室の当主=王個人が支払いを担保する約束証文を振り出すだけだった。債務返済の支払いも含めて、財政資金はもっぱら王室の収入だけからまかなっていた。
したがって、戦争のあとであまり巨額の出費のために、王室の支払い能力が失われ、支払い停止宣言(王室の破産宣言)が出される事態が頻発した。
そうなると、王室に融資した大金融商人もまた財政破綻に引きずり込まれ、破産することになった。
このような財政構造は市民革命まで変わらなかった。
地球儀を見ると、ユーラシア大陸の西の端に突き出た小さな半島、それがヨーロッパだ。この半島=ヨーロッパは、北、西、南の三方を海洋で囲まれている。北海、バルト海、大西洋、地中海で。内陸では山岳部を水源とする長い河川が、高低差の小さい広大な平野を豊かな水をたたえて流れている。
陸上の運搬手段が未発達な状況では、船舶による輸送、海運、水運が最も有力な物流手段だった。船舶は嵩張る荷物や重い貨物を、陸上の馬車や人力荷車に比べて格段に速く、安全に(低コストで)運ぶことができる。
ゆえに、ヨーロッパの長距離商業、遠距離貿易は、武装した船舶によって担われることになった。
中世晩期の遠距離貿易の発達にともなう都市の出現や成長は、沿岸部の港湾地帯や大河川の流域で始まり、やがて、こうした有力諸都市を結ぶ内陸貿易路の要衝、結節点で成長することになった。
船舶輸送の発達と内陸都市の成長は、船舶航行と輸送路の確保のために、早くから河川と河川とを結ぶ運河の開削を促した。
商品を輸送する船舶は、古くから武装した独立の軍事単位でもあった。
長距離の交易路は、海上でも陸上でも、数多くの君侯や領主たちの支配圏を横切るため、また競争相手の諸都市や商人団体の攻撃や掠奪も頻繁に起きたからだ。当時、実力行使による財貨や商品の強奪は、立派な「商行為の1つ」として認められていた。つまり、軍事行為は商行為の1つとして、広く容認されていた。
ただし、私掠(海賊)行動の正当性は、武装艦船および乗組員が所属する都市団体や商人団体、君侯領主に税や賦課金を支払うのと引き換えに得た免許=特許状によって、付与されていた。
友好的な交易うまく立ち行かないときには、戦闘=海賊行為や掠奪も辞さない活動だった。それゆえまた相手から襲われ、掠奪を受けるリスクも大きかった。がだから、商船は武装した軍船でもあった。⇒船舶と海洋の軍事史について
乗組む船員たちは、冒険航海による一攫千金(成功報酬の分配)をねらう冒険商人でもあると同時に屈強の兵士たちだった。
このような文脈で、戦闘艦艇や艦隊、すなわち海洋軍事力は、個別の商人団体や都市団体が編成した。やがて、商人団体や都市が強大な王国(絶対王政)に統合されてからも、実質的には、艦隊を直接指揮・統制する権限は個別の商人団体や都市に残されていた。