北イタリアでは、これらの都市は12世紀には、相互に争いながら、自らを中心に周囲の中小都市や農村(領主所領)を囲い込んで、政治的・軍事的にひとまとまりの統治権域(コンタード)をつくり上げていった。つまりは、都市国家の建設だ。
そのさいの防衛や侵略、膨張の軍事力の主要な部分をしだいに担うようになったのが、傭兵だ。
それまでは、都市の住民がその身分や資産に応じて自ら武装して、自分たちの都市を防衛していた。
だが、都市国家の形成やその支配圏域の拡張のために戦争や争乱が日常化し、それゆえまた兵器や築城技術が発達し、また戦争の形態や戦法、戦術が高度化すると、軍務や防衛活動は、武装や戦闘のために組織され、訓練された、特殊な専門家たちの仕事となった。
つまり、金銭による報酬で軍務を担う専門家、すなわち傭兵が恒常的な職業=制度として成立した。
彼らを雇うためには、当然巨額の資金が必要だったが、地中海貿易でのヘゲモニーを握った北イタリアの諸都市と商人(団体)は、世界貿易・遠距離貿易をつうじて莫大な利潤と富の蓄積を獲得していたのだ。
ところで、イタリアの都市国家のあいだの戦争では傭兵という営利的=経済的なビズネスを介在させたものとなった。すると、傭兵隊長たちは、敵味方互いに談合して、報酬を受ける期間を長引かせ、互いに相手に決定的な打撃を与えないように、攻防のシナリオをつくって戦闘する振りをするようになった。
こうして、イタリアではいつまでも決着のつかない戦役が持続するようになった。諸都市の力関係の均衡は、それぞれの通商能力に応じて保たれるようになった。
諸都市は猫の目のように移ろいやすい(二枚舌、三枚舌の)同盟関係で合従連衡しながら、ある都市があまりに強大になりそうな気配になると、敵側に回りその足を引っ張ってバランスを保ち、覇権を握る都市が現れないようにしていた。
多数の国家のあいだの勢力均衡(balance of power)という諸国家関係の原理は、このとききに明確な形を取り始めた。
ヨーロッパのほかの地域では、傭兵制度の成長発達は少し遅れた。
それまで、その地域での軍役・軍務は騎士層によって担われていた。
西ヨーロッパでは、8世紀後半から9世紀にかけてフランク王国が膨張した。
当時のヨーロッパ大陸のほとんどは自然林(と一部は湿地・草原)で、人類はその広大な森林のなかに集落を形成して散在・点在していた。
開拓が進むと、いくつもの集落が出身母体集落との血縁や地縁によって結ばれ、部族社会を形成していった。やがて、有力な部族が周囲の部族を支配ないし指導する緩やかな政治的・軍事的・文化的関係がつくり上げられた。
おりしもその頃、中央アジアでの民族大移動が連動した結果、マジャール人がウクライナ平原〜バルカン半島以西のヨーロッパ全域に移動侵入し、略奪や武力紛争が頻発するようになる。
これに対応して、村落や集落を守るため、有力部族の長たちのなかから騎馬戦を得意とする戦士階級・身分(重層騎士)が生まれていった。
おそらくペルシアや東ローマなどの東方の古代帝国の騎兵軍備を模倣したものと思われる。ただしヨーロッパでは重層騎兵の主要な武器は、弓ではなく槍だった。