そんなアナログでさえ、感動していた少年たちにとっては、電子回路での電気信号の瞬間的なやり取りで、とてつもない複雑で膨大な計算を処理してしまうシステムは、異次元の魔法だった。
ところが70年代はじめ、アメリカでは普通の企業経営の財務管理や業務管理、設計などに広範にコンピュータが導入されていたという。
そういえば、私たちにある科目を教えていた高校の教師が、当時、アメリカに研修旅行に出かけてもどった途端、コンピュータと電子工学の信奉者となり、私たち生徒に英語とコンピュータの勉強の必要性を説いた。そして、将来コンピュータが社会生活全体の管理や補助に導入されるようになるから、勉強を怠らないように、と熱弁を揮った。
そのくらい、当時のアメリカにはコンピュータの産業利用が進んでいたわけだ。
私は、自分が「原始人」になっていくような気がした。
コンピュータには、そこで落ちこぼれてしまった。それから20年ほどのちになって、私はふたたびコンピュータの前に座るようになった。
日本でウィンドウズやマックなどのOSを搭載したコンピュータが職場に普及し始めるのは、私が30~35歳くらいの頃で、自分でパソコンを買って使うようになるのは、さらにその数年後だった。
そんな時代に、この映画がつくられていた。今から35年前だ。
やはり、世界の覇権を握り続ける国家は違う。
この作品の脚本と監督(制作指揮)を担ったのは、マイケル・クライトン。彼は、医学や法学、工学技術、生物学・考古学など、あらゆる分野の最先端の問題領域を取り上げた小説や映画を、もう50年以上にわたって、つくり続けている。
その知識の広さと確かさ、視角(切り口)の鮮やかさには、恐れ入る。
才能と努力、研究の天才だ。
そのクライトンが、この作品で提起したというか、投影した問題あるいは問題視角(パースペクティヴ)は何か。いろいろ考えられるなかから、1つだけに絞って、ここで考えてみたい。
その論点とは、
人間がつくり出した電脳システムは、人間のコントロールから自立できるか、そして人間に立ち向かう何者かになりうるのか、という問題だ。この作品で提示された、制御用スーパーコンピュータとロボットたちが人間に反撃・反乱を起こしたというプロットから引き出した問題だ。
ここでは、IT情報システムの側から「造物主への被造物の反逆」という問題を立てたが、遺伝子工学や生物化学、生物工学の側からも、同じ問題が立てられるだろう。「ブレイドランナー」のように。