この映画では、制御コンピュータは、ロボットに対して、「自分に敵対する人間(熱の発生源)を追い詰め、破壊せよ」というプログラムをインプットしたようだ。その場合、「自分に敵対する」相手が何かについて判断するさい、それぞれのロボットの「体験の記憶」を判断材料にするようにしたようだ。
だから、映像上は、ロボットは「だれかれ見境なく」ではなく、過去に敵対・闘争した相手に向かって執拗に攻撃を仕かけるようになった。
ロボットのその行動は、感情=憎しみや敵対心ではなく、メモリーそれ自体から判断された結果として起きたことになる。過去の行動や経験の記憶から、将来の行動を決定するという限りでは、たしかにパースナリティを与えられている。しかし、それは、感情や意思、欲望というものとは、同じものではなさそうだ。
論理的な思考や推論のプロセスがコンピュータによる演算プログラムとして組み立てやすいだろうということは、何となく理解できる。
では、人間の感情や欲望、意思というものは、どういうものなのか。精神とか「心」というべきもの、そういうものをもつ生物の個性というか個体としての独自性とは、いったい何なのか。
造物主としての人間からのAIの自立化という事態は、こういう問題を前提にしている。
いってみれば、AIとは何かという問題は、じつは「生物個体とは何か」「人類とは何か」「人間とは何か」についての問いかけということになる。知能とか知性という現象は、ヒトという生物の精神現象ないし心の作用として発生してきたからだ。
とすれば、電脳工学と生物工学との結合のなかで、解明される問題か。いや、電脳は、要するに、機械的な回路に人為的に生じさせた電子分布やイオン濃度の勾配を利用して、情報を電子の移動(さらには素粒子の移動・変異)を利用して発信・送信・受信させる仕掛けだ。
発達した電脳は、限りなく生物の情報システムに近づくようだ。生物はそれぞれの個体の内部と相互間で電子やイオン濃度の勾配によって、情報を伝達し、エネルギーのやり取りをおこない、環境や刺激に対応して遺伝子プログラムを発動させる。これは、生命の機能そのものではないか。してみれば、電脳工学は、生物学の内部の1分野でしかないということか。
それにしても、人間の意識や感情――不合理で非論理的で倒錯や混乱を含む――という現象のすべてが科学的に解明できるのだろうか。あるいは、ある種の感情を要素とする精神作用の因果関係をコンピュータで解析し、また電脳の作用として再現できるようになるのだろうか。
たとえば、犯罪捜査での直観や直感は、過去の経験の集積から生まれるものだというが、その判断過程は論理化されコンピュータ・プログラムに置き換えられるのだろうか。
そういうものを解明することは、人間が生物としての、また勘定の担い手としての自分を理解するために役立つのだろうか。それとも、人間は」ますますIt情報システムに深く依存し、空洞化し、やがて従属化することになってしまうのだろうか。
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