ベートーヴェンが作曲のスタイルとして、ひとまず楽曲を最小の単位=小節を精錬・彫琢し、この単位を積み上げ組み立てて体系的な音楽を構築する方法を開拓したのは、私見では、耳の疾患のゆえだったのではないかと考える。
耳の病気、聴覚の欠落によって、楽曲・音響の調和や安定性を聴覚によって直観的または即興的に把握できなくなったために、楽曲のイメイジをひとまず最小の単位=小節ごとに正確に打ち固め、それからこの単位を――建築でのレンガのように――隙間なくきっちり組み立てていくことしか、破綻のない楽曲をつくる方法としては残されていなかったからだ、と。
バッハやモーツァルトやベートーヴェンは、音階や和音に対する感覚=理解がきわめて正確だったから、別に楽器で音を確認しなくても、記譜することは十分できたはずだ。
だから、この映画作品のようにピアノに向かって音を確認しながら作曲することはまずなかっただろう。彼らは楽譜に音符を並べるだけで正確に旋律や音形を聴き取り理解することができた。
譜面の上だけで、自分の脳のなかで響いている音響=音楽を正確に記録することに、何の障害もなかった。
とはいえ、オーケストラの多様な声部・音色、音階が合成して醸し出す音響の微妙な点については、確認や調整が必要になったかもしれない。
その場合、モーツァルトやバッハは、その当時のこととて、楽譜の細かいところについては詳しく指示を書かずに素描的に流しておいて、自らおこなう実際の演奏で耳で感じながら即興的に工夫してバランスやムーヴメントを調整=補完することができた。ところが、耳が悪いベートーヴェンはそれができなかった。
まして、ものすごく耳が良いモーツァルトのように同時にいくつものモティーフを散りばめて破綻なくまとめるというようなアクロバットは、できるはずもない。
ベートーヴェンは楽譜の上できっちり計算しながら、基本のライトモティーフはできるだけ少なくして、それを相互の関係性のなかで変形・変容・相互浸透させながら展開していくしかないということになる。理詰めで作曲するしかなかった。
してみると、構築性とか体系性というのは、音を即興的に聴き取りながら流麗な動きを生み出すやり方が困難なベートーヴェンだからこそ、美しい音楽を破綻なく構成するために不可避的に選んだ戦略だったのかもしれない。
■ベートーヴェンのなかでの葛藤■
とはいいながら、若い頃に鋭い耳で現実の多様な音響を経験し音楽感性を磨いた身としてみれば、難聴によって余儀なくされた方法だけで作曲するやり方には、不満や不安、いや物足りないものを感じていたこともあったはずである。
この映画で、ベートーヴェンとアンナ・ホルツという2人の登場人物の設定、対置は、そういうベートーヴェン内部の要求や感性の対立・分裂を表現したものかもしれない。私がそう感じたのは、そのような理由からである。
つまり、アンナ・ホルツが出会ったベートーヴェンは、見事なまでに卓越した1つの体系的に洗練された作曲法を創出したマエストロでありながら、そういう限界の内部にとどまり続けることに焦りや不満を感じ始めていたベートーヴェンなのではないか。その場合、アンナは、盛期のベートーヴェンの音楽観の人格的な表現、それをリプレゼントするキャラクターということになる。
それで、弦楽四重奏第13番の終楽章「大フーガ」の作曲に挑むベートーヴェンは、それまでの作曲法の限界を打ち破ろう、別の側面の曲想を描き出そうとする、もう1人のマエストロ――ベートーヴェンの内部の葛藤する意思のもう片方――だったのではないか。と私は思うわけだ。
ベートーヴェンの聴力障害は波状的に襲ってきたようで、ときおり聴力が回復することがあったという観測もある。聴こえたり聴こえなくなったりという状態は、ベートーヴェンを苛立たせ癇性をひどくすることもあっただろう。
ともあれ、大フーガの実験は、当時としてはあまりに先に進みすぎていたようだ。そもそも楽団の演奏技術も、マエストロが要求した水準にあったかどうかかなり疑わしい。何しろ、彼らは先頃ベートーベン自身が打ち出した楽曲法をようやく習得・理解したばかりなのだ。