それにしても、この作品で描かれるベートーヴェンは、恐ろしく傲慢不遜で恥知らず、人格破綻者と呼べるほどに奇矯な人物である。
映画《アマデウス》で描かれたアマデウス・モーツァルトやサリエーリもそうだったが、映画で描かれる有名音楽家たちは、どうしてこうも醜悪、奇矯な人物として描かれるのだろうか。これほどに人格をデフォルメしないと、映画や演劇の物語にはならないのだろうか。それとも、人間一般のある側面を誇張して描くために、音楽家たちが単なる素材として選ばれるのだろうか。
まあいい。物語に話を進めよう。
そして、物語が語りかけてくる寓意やメッセイジを、私なりに――つまり自分勝手に――読み解くことにしよう。
1824年の冬が間近に迫った晩秋、ヴィーンの有力な写譜師 copyist であるマルティン・バウアーの住居を妙齢の女性が訪ねてきた。その頃、写譜師は楽譜編集出版業者でプロモウター、マニジャーをも兼ねていた。何しろ楽曲を記録にとどめ印刷出版して世の中に音楽として供給する方法は、写譜と印刷物しかなかった時代だったのだ。
その日、バウアーは、日頃、無理難題を吹っかけてくるベートーヴェンの酷使のためか、体調をすっかり崩し、ひどい発熱で寝込んでいた。
アンナ・ホルツと名乗る妙齢の端麗な女性は、「音楽学校からの紹介・斡旋で、ベートーヴェンの写譜を手伝うために来ました」と来訪目的を告げた。
「あの教授め、若い娘を寄こすなんて!
有能な写譜師を紹介しろと言っておいたのに。ああ、《交響曲第9番》の公演まであと4日しかないというのに、何ということだ……」とバウアーは嘆息した。
「私がその学校から推薦を受けた写譜師です。作曲科を首席で卒業しました」と、アンナは自己主張するように反論した。無理もない。専門の職業婦人というものがまだ現れていない時代だったのだ。
それでも演奏会まで日がないこともあって、マルティン・バウアーは、強引なベートーヴェンの言いつけを思い出した。
「そうだ、すぐにできあがった楽章を楽譜として清書してマエストロに届けなければならないんだ。
そうだ、彼の殴り書きの楽譜をとにかく清書して、届けてくれ。私はすっかり身体を壊していて、高熱で立つこともできないんだ。頼む」
というわけで、アンナは乱脈をきわめる楽譜を手際よく楽譜を清書すると、ベートーヴェンの住居に向かった。
アンナが訪れたとき、耳が悪いベートーヴェンは、薄い銅板製の凹面鏡のような集音器を頭にかぶってピアノを弾いていた。第9番の合唱部を作曲していた。
楽譜を届けに来たのが若い女性で、しかも彼女が家政婦ではなく写譜師だと知ると、やはり「女なんかに」という態度を示した。ところが、彼女が清書した楽譜を見て驚いた。
転調する部分が書き換えられていた。
「違うじゃないか。ここはイ長調に転調したところじゃないか。なぜロ短調になっているんだ」と問い詰めた。
「いいえ、それは間違いです。あの敬愛するベートーヴェン様なら、必ず短調に転調するはずです。ロッシーニみたいに、ただ軽快にイ長調に転調するでしょうか」
アンナは強く主張した。
じつは、その部分について迷っていたベートーヴェンは、やはり自分ならロ短調か、と妙に納得してしまった。しかし、ベートーヴェンは若い女性といることが気づまりになってしまったので、そのまま夕食に出かけた。
そして、夕食後も自宅に帰りづらくなって飲んだくれて、帰宅が遅くなった。
その間、アンナは部屋の外で待ち続けていた。ゴミだらけの部屋にネズミが出没するのが恐ろしかったからだ。冬が迫る寒い夜なのに。
申し訳なく思った作曲家は、アンナを写譜師として雇うことにした。
というわけで、アンナ・ホルツはベートーヴェンの写譜師として作曲家のもとに通い詰めることになった。