テロ事件の発生とその後の経過は、いくつもの偶然が重層連鎖した状況の産物だった。
ドイツ連邦バイエルン州ミュンヘンでのオリンピック。ドイツにとっては、戦後はじめてのオリンピックで、1936年のベルリン・オリンピック以来のものだった。
36年の大会は、ナチスが支配するレジーム下でのオリンピックで、ヒトラーが君臨するドイツ帝国の権威発揚の場として徹頭徹尾利用された。今回のオリンピックは、それゆえナチズムから解放され復興し民主化したドイツの存在を世界的に認知してもらう場として、位置づけられるべき大会だった。
ドイツ政府は、国家権力による統制や介入、つまりは警察や警備組織による監視や規制をできるだけ目立たないようにしようと努力していた。
したがって、概して、競技会場や選手宿舎、交通路などでの警戒や警備は手薄で大らかだった。空港や港湾での入国手続きや旅行者の監視についても、ほとんど何もなかった。平和な時代だったのだ。
そのことは、パレスティナ過激派=テロリストたちの襲撃をやりやすくした。
そして、テロリズムに訴えるしかないほどに、パレスティナでのイスラエルの権力は圧倒的に優越し、アラブ系住民たちは抑圧、圧迫されていた。
テロリストたちも、当初は、全面的な殺戮を狙うというよりも、パレスティナ問題をセンセイショナルに世界にアピールするということを、直接かつ最大の目標としていたようだ。スピールバーグ監督自身とスタッフたちは、そう見ているという。
たしかにパレスティナ問題を世界中に訴える効果はった。だが全体としては、問題の解決の道を見いだせない状況下で引き起こした絶望的な抵抗、憤懣の吐け口としての暴力だったということになる。というのも、その後、アラブ系パレスティナ原住民に対するイスラエルの抑圧はさらにひどくなっていったからだ。
しかし、実際の経過と結果はひどいものだった。
それぞれの当事者が計画やもくろみを抱いてことに臨んだが、いったん事件が始まるや、偶然性と偶発性が支配し、人びとを翻弄した。
作品の映像では、ミュンヘンのテロリズムへの直接的な報復として、そのために、イスラエル政府は対抗テロリズムを遂行するティームを組織し派遣したという文脈になっている。
「イスラエル国家とその市民へのいかなる暴力的な攻撃に対しても、イスラエル国家は容赦なく報復する」、つまりは、ネイションとしてのイスラエルには手を出すな、という国家意思を明確に示すためにこそ、テロリストに対抗するテロリズムを目的意識的におこなう、というわけだ。